峰隆一郎 殺人特急《ブルートレイン》逆転の15分 目 次  一章 どしゃ降り  二章 蝮毒殺人  三章 入れ換った女  四章 消えた死体  五章 扇子の漢詩  六章 保険金殺人  七章 非常コック  八章 崩れたアリバイ  九章 落ちたパスポート  一章 どしゃ降り     1  八月二十四日、月曜日である。  朝夕はいくらか涼しくなったが、残暑は厳しい季節である。夕暮れには蜩《ひぐらし》が啼《な》き、夜になると虫の声がにぎやかである。  クーペは、世田谷通りを都心へ向かって走っていた。この通りは道幅が狭く、その上に車が多く、よく渋滞し、運転者を焦立《いらだ》たせる。更には、一年中どこかで道路工事をしている。この日も車の流れはスムーズではなかった。  ハンドルを握っている神崎雅比古《こうざきまさひこ》は、予定の時刻よりかなり遅れて、疲れてもいるようで焦立っていた。煙草ばかり吸う。車内はクーラーをつけっ放し、煙草を吸うときには窓を少しだけ開ける。だが目は渋くなり、咽《のど》はがらがらになる。クーラーを止めるとサウナのようになってしまう。もともと血圧の低い雅比古である。暑さには弱い。  神崎家の別荘のある箱根に遊んだ帰途だった。金曜日の二十一日の夜に箱根に向かったのだから、三泊したことになる。いわば短い夏休みでもあった。  雅比古は四十二歳、いくつかのビルを経営する神崎商事の専務、といっても父親の神崎義彦が社長で、兄の達彦が副社長という一族会社なので、彼は才能があって専務の地位にいるわけではなかった。加えて、母親の神崎|八重《やえ》は衆議院議員で、公民党の委員長でもあった。 「夕立でも降ってくれれば涼しくなるのに」  助手席に坐っている見城美樹《けんじようみき》が呟《つぶや》くように言った。空は晴れて、灼《や》くような太陽が照りつけていた。その空が多摩川に架《かか》る鉄橋に近づくにつれて曇りはじめた。  美樹は、長くて形のいい足を組み換える。左肩から斜めにかけたベルトは、胸の膨《ふくら》みをきわ立たせていた。大きいというほどではないが、二十八歳の乳房は充実した形をしている。彼女はハンドバッグからモアの箱を出し、中から一本を抜いて咥《くわ》え、銀製のライターで火をつける。茶色い細巻きのアメリカ煙草は、彼女の白くて細い指によく似合っていた。  美樹は二十八歳、私立大学を卒業し、そのまま大学にいて、いまは国文科の助手である。将来は、助教授から教授の道を歩くつもりでいた。人は彼女のことを才媛《さいえん》という言い方をするが、その才媛にふさわしい能力と容姿を持っていた。  フロントガラスから見る空が、さっきまでとは様相を変え、重く暗くなっていた。 「一雨くるのかしら」 「夕立かな、くれば涼しくなるんだろうけどな」  雅比古がそう言ったとき、ポツリ、ポツリと雨滴がフロントガラスに当った。 「早く家に帰って、横になりたいな」 「疲れたの」 「ああ、きみのせいでね」 「まあ、ひどい」  美樹は、彼の膝を軽くたたいた。  雅比古は、三年前に妻|玲子《れいこ》と離婚し、いまは独身である。離婚理由は、性格の不一致という曖昧《あいまい》なものだったが、二人にとっては確かな理由だったようだ。二人の間に子供はなかったので離婚はスムーズに成立した。  玲子が雅比古を嫌ったのは、彼の優柔不断な性格にあったようだ。体質的にも弱く、精神的にも臆病で、何一つとして自分では決められず、父や母に相談しなければならない。  だが、美樹はそんな雅比古が嫌いではなかった。人には必ず欠点というものはある。完全な人間なんているわけはないのだ。気が弱く、臆病な点を寛容できれば、彼は多くの美点を持っている男だった。  容姿も悪くないし、第一に財力がある。加えて賭けごとをやるわけでもないし、女性関係にルーズというわけでもなかった。  ものの考え方に減点主義と加点主義がある。玲子は減点主義で、雅比古の欠点が我慢ならなかったのだろう。美樹は加点主義で、彼のいいところを見ようとしていた。  美樹が雅比古と知り合ったのは、あるパーティでだった。知り合いに紹介され、それから交際するようになったが、それが玲子と離婚する一ヵ月ほど前だった、とは美樹があとで知ったことである。  彼女は雅比古を愛した。十四歳も年上でありながら、どこか頼りない男。だが、大言壮語して強がる男よりも、雅比古のようにデリカシーのある男のほうが好きだった。男に頼って生きたいという女には、雅比古のような男はもの足りないし、将来が不安だろう。だが美樹は行動力のある女である。男が弱ければイニシァチブを女が握ればいいのだ。  運転している雅比古の横顔を見る。臆病だが生まれと育ちはいいので、気品があり、端正な顔立ち、身長も一七六センチあり、スマートである。もちろん着るもののセンスもあった。  玲子という前の奥さん、どうして彼を手放したのだろう、と思う。玲子が手放したから美樹に回って来たのだ。前妻に感謝しなければならない。  登戸をすぎ、多摩川に架る鉄橋を渡った。大粒の雨がフロントガラスに叩《たた》きつけられる。あたりは夜のように暗くなり、雅比古はヘッドライトを点《つ》けた。そのライトに白い雨足が浮かび上る。 「どしゃ降りの雨だな。予報では、降るとは言ってなかったけどな」 「これで涼しくなるわ」 「それにしてもひどい」 「こういうのを篠突《しのつ》く雨というのね」  周りの音は雨の音で掻《か》き消され、ワイパーが激しく左右に動いている。その隙間から信号もぼんやりとしか見えない。  雅比古は、ハンドルを左に切った。世田谷通りを外れた。住居は砧《きぬた》にある。いま少しで家に着くのだ。運転は慎重だった。対向車のヘッドライトもない。腕時計を見るとまだ午後五時を五、六分過ぎたところだった。 「アッ!」  と叫んだのは美樹だった。目の前を黒いものが、右から左へ移動した。雅比古は同時にブレーキを踏んでいた。スピードは三十キロ足らずだったが、雨でタイヤがスリップして車は横向きになった。 「轢《ひ》いた!」 「そうじゃないわ、車体には何のショックもなかったわ」  車を道端に寄せ、彼はドアを開けた。後ろを見る。黒い洋傘が雨に打たれて、右へ左へと動いている。そのむこうに黒い塊りがあった。 「やっぱり、人を撥《は》ねた」 「そんなはずないわ」 「早く、病院に運ばなければ」  雅比古が車の外へ出ようとするのを止めた。 「行くのよ」 「どうして、ぼくは」 「違うわ、あなたは何もしていない。あの人は、自分で滑って転んだのよ。すぐそこに歩道橋があるというのに、どうして車道を渡ったのよ。あなたが撥ねていなくても、関り合いになれば、ただではすまないわ」 「でも」  車を出ようとして、雅比古は迷っているのだ。美樹に引きもどされたわけではない。出る気になれば、彼女の手など振り払えた。 「早く出して」 「でも、誰か見ていたかもしれない」 「この雨の中、誰が見ているっていうの。早く出して、いま、お母さまは微妙な立場よ」  それでも、彼は一呼吸迷った。迷いながらドアを閉め、そして車をスタートさせた。 「大丈夫よ、あなたは轢いたわけではない。あたしが証人よ」  雅比古の顔がどす黒く見えた。ハンドルにしがみつくようにして運転する。路地に入り、角をいくつか曲って家の前に着いた。そのときには雨は小降りになっていた。車を車庫に入れ、シャッターを降ろして、電灯をつけた。  美樹は車から降りて前に回ってしゃがみ込んだ。左のヘッドライト、バンパー、車体を撫《な》でまわす。どこにも凹《へこ》みも傷もなかった。雅比古は運転席に坐ったまま、ぼんやりとしていた。 「傷も何もない。触ってもいないのよ。あの人は自分でよろけたか滑ったかして転んだのよ、いまごろは、ずぶ濡れで家に帰っているわ」  だけど、黒い塊りは粗大ゴミのように動かなかった。  美樹は彼をうながした。車から降りて車庫から家の中に入る。ムッと暑い。クーラーをつけておいて、雨戸や窓を開ける。  いつもなら、春江という五十すぎのお手伝いがいるのだが、彼が箱根に行くために、暇を出した。春江がもどってくるのは明日である。それで美樹は家までついて来たのだ。  さっきの豪雨は嘘のように、陽がさしはじめていた。雅比古は、居間の中央にぼんやりとつっ立っていた。 「しっかりして、大丈夫よ、あたしがついているわ」 「いや、少し疲れたんだ」 「だったら、シャワーでも浴びて、横になったら」 「そうするか」  と雅比古は、よろめくようにバスルームに向かって歩く。かなりショックだったようだ。その後ろ姿を見て、美樹は、この人にはあたしがいなくては駄目なんだ、と思った。     2  翌朝——  美樹はマンションで、早く目をさました。気になっていたのだ。玄関のドアの郵便受けには、新聞が入っていた。それを持って来てテーブルの上に拡げた。社会面である。目が忙しく活字を追う。  右下の雑件記事の中に、小さく、豪雨に老婆死す、という一段の見出しがあった。秋坂うめ(73)とあった。世田谷の路上で豪雨の中、滑って転び頭を打ち死んでいるのが発見された、という簡単な記事だった。  美樹は、すぐに雅比古の家に電話を入れた。彼も気になって朝刊を待っていたらしい。もしかしたら昨夜は眠らなかったのかもしれない。一緒にいてやるべきだったのかもしれない、と少しだけ悔んだが、まだ結婚したわけではない。彼の家に泊るなんてことは遠慮しなければならない。 「大丈夫だったでしょう、お婆さんは自分で転んだのよ。あのとき、あなたが病院に運んだとしても、助からなかったわ。関りになっていたら、いまごろ大変なことになっているわ」 「わかっているよ」 「今日は、会社、おやすみになって、寝てらしたらいいわ」 「そうもいかないだろう」 「そう、だったら、午後にでも会社のほうに電話入れてみます」 「美樹さん」 「何か」 「いや、いいんだ、じゃ」  と電話はむこうから切れた。美樹はトーストを焼き、ハムエッグを作り、珈琲を淹《い》れた。椅子に坐って、食事をする。いつもなら大学に出るまでせわしく忙しいところだが、今朝は一時間も早く起きてしまった。だから、時間はたっぷりあった。  食事を終えて、モアを咥《くわ》え火をつける。  あのときの判断は間違っていなかったはずである。雅比古は老婆を撥《は》ねはしなかった。接触もしなかった。だが、あのとき、もし、雅比古が、老婆を車に乗せて病院に運び、警察に正直に届けていたら、どういうことになっていただろうか。もちろん、病院に運べば、それでいいというわけにはいかない。警察に届けなければならないし、事情聴取を受けることになる。そこで、雅比古は釈明できなかったろう。  たとえ車体が人体に触れなくても、車が走っていれば風圧というのがある。豪雨の中だから水しぶきもあるだろう。その風圧と老婆が滑って転んだことと関係ないとは言えない。三十キロのスピードでも車は走っていた。その前を老婆が横切り、風圧で足がもつれ滑って転び死んだとなれば、当然、雅比古にも過失責任は出てくるのだ。  もちろん、雅比古はそのことを知っている。だから、豪雨の中、車からとび出すのをためらっていたのだ。その辺を交通課の警官に追及されれば、彼には言い逃れる自信はなかっただろう。 「でも、これで何事もなくすんだんだわ」  と美樹は煙草を灰皿に押しつけ、椅子を立った。まだ大学は夏休み中だが、美樹には研究テーマがあった。資料を整理しなければならない。仕度をしてマンションを出る。三泊四日、箱根で遊んだせいか、体は軽かった。  その日の夕方六時に、美樹は渋谷へ出た。  宇田川町にある喫茶『イタリ屋』のドアの前に立つ。半透明のドアがスルスルと開き、体を店内に入れた。クーラーがよく利《き》いていた。店の席は半分ほど客でふさがっていた。むこうの窓ぎわで、女性が手を上げた。彼女はその席に歩み寄り、テーブルを挟んだ椅子に坐った。しばらく、と低く挨拶する。 「美樹、ごめんなさい、呼び出して」 「ごめんなさいなんて亮子《りようこ》らしくない」  そばに立ったウエイトレスにアイスティをたのんだ。  西郡《にしごり》亮子、彼女とは大学のころからの親友で、お互いに名前で呼び合う仲である。年齢も同じ、身長も容姿も優劣がなかった。友だちでも、どちらかがどちらかの引立て役というのはいやなものである。優劣がないほうがつき合いやすいし親しくもなれる。教養もセンスも差がなかった。ちなみに、美樹の身長は一六一センチある。 「どう、新見《にいみ》さんは」 「ええ、実は、そのことなのよ、美樹に相談したいというのは」 「女性関係?」  亮子は頷いて微笑した。 「大丈夫よ、若いころに遊べば、結婚してからはおとなしくなるっていうわ」 「若いったって、彼はもう三十五よ」 「そうだったわね」  彼女は、来年三月に、新見|晋《すすむ》と挙式することになっている。美樹と亮子は結婚相手もどこか似ていた。もっとも雅比古は再婚になるけど、新見は初婚であるし、亮子とは七歳しか違わない。新見は、私学新見学園の理事長新見|喬三郎《きようざぶろう》の長男で、学園の学生部長をしている。美樹も新見晋とは三度ほど会っている。 「亮子、話してよ、水くさいわよ」 「それがね、喋りにくいのよね」 「そう、亮子、少しのみに行かない。お酒のみながらのほうがいいでしょう」 「そうね」  美樹のほうが先に立った。伝票は亮子が摘《つま》んだ。支払いをすませて外に出る。むっ、と熱気が体を包む。汗がじとっと滲み出てくる感じだ。  二人が並んで歩くと、すれ違う男たちが振りむく。プロポーションもお互いに整っていた。五分ほど歩いてビルに入り、エレベーターで最上階に上る。ラウンジバアになっていた。クラブ風だが会員制ではない。案内されて窓ぎわの席に就く。ウイスキーのボトルはキープしてある。はじめはビールにし、料理をオーダーする。運ばれて来たビールをグラスに注ぎ、とり敢えずグラスを合わせる。  亮子が新見晋と知り合ったのは五年ほど前になる。ずっと恋人同士だったわけだが、新見にはその間にも他に女がいたようだ。そのことは美樹も亮子から聞かされていた。 「わかったようなこと言うようだけど、人間には欠点は付きものよ」 「だって、神崎さんはそんなことないでしょう」 「女性関係はないけど、やはり欠点はあるわ」 「あたし、新見とは別れようか、と思ったこと何度もあるのよ」 「でも、愛しているんでしょう」 「愛しているから迷っているのよ。はっきり別れられればいいんだけど、やはり未練があるのね」  亮子は、なかなか本題に入ろうとはしない。お互いの小ビンのビールが空になり、ウイスキーの水割りに変った。料理が運ばれてくる。  美樹もせかせるわけにはいかない。亮子が口を開くのを待った。グラスが空になり、水割りを作る。 「今年は、なかなか涼しくならないわね」 「まだ八月よ」  亮子は喋るのをためらっている。それほど言いにくいことなのか、それとも喋りにくいほど重大なことなのか。 「実は……」  と亮子が言い出したのは、この店に来て一時間ほど経ってからだった。二人ともかなりアルコールが入っていた。 「十一年も前のことなの、美樹だから話すんだけど」 「あたしは口は堅いわ」 「知っている。晋《しん》はある男に恫喝《どうかつ》されているの」  美樹は視線を外して頷いた。見つめていては喋りにくいだろうと思ったからだ。 「晋に、十一年前にある女がいたのね」  亮子は、新見晋を晋《しん》と呼ぶ。 「その女、泰美《やすみ》って言って、生きていればいま三十二になっているはずだって」 「亡くなったの」 「十一年前に、晋に振られて自殺したの。その泰美の兄というのが、十日ほど前に電話して来たんだって、あたしに話してくれたわけ」 「十一年も経ったいまになって、何だっていうの」 「五千万円出せって」 「五千万円?」 「泰美の日記帳を、その兄って男が持っているっていうの、その日記を公表されたら、新見学園に傷がつくんじゃないかって」 「その泰美って女のひと……」 「そうなの、新見学園の高等部のころから、晋と関係があったらしいの。その日記に書かれているのは、晋とのことだけではなく、学園の裏の事情のことまで書いてあるみたいなの。晋が寝物語りに泰美に喋ったらしいのね」 「その裏の事情っていうの、亮子は知っているの」 「少しは話してくれたわ。私学にはいろいろとあるらしいのね、裏口入学とか、裏帳簿とか、もっとも新見学園に限ったことではないらしいんだけど」 「その泰美ってひと、新見さんが喋ったことその度に日記に書いていたのね。万一のときのことを考えて」 「万一のことって?」 「そういう女っているでしょう。もしその男が別れようと言い出したとき、別れられなくするために、秘密を握っておくとか」 「そうかな、そんなことって、あたしは考えたことないけど」 「そんなねくらな女の子っているものよ。まあ、そんなことはどうでもいいけど、それで?」 「晋も、その日記に何が書いてあるのか、わからないらしいの。五千万円って言って来たのだから、それだけの価値のある内容なのだろうけど。晋は、五千万円は用意できないことはないって言うけど、恐喝者って、一度応じれば二度三度骨までしゃぶるって言うでしょう。泰美の日記っていうの、渡してもらっても、その日記帳をコピーしていないって保証はどこにもないわけだし、ねえ、美樹、どうしたらいいの」 「どうしたらいいって言われても」 「あたし、その男に会ってみようと思うの」 「亮子は新見さんのために、この問題を解決してあげたいわけね、それだけ愛しているってことでもあるわけだ」 「冷やかさないで、あたしは真剣に美樹の力を借りたいと思って、言っているのよ」 「冷やかしてなんかいないわ。亮子の気持ちを確認しているのよ」 「晋と結婚するのだったら、それくらいの覚悟はしなければならないわ。それとも、こんなことに深入りせずに、晋とは別れてしまうかってこと」 「亮子はどっちなの」 「わからない。その男と会うには、それなりの危険もあるだろうし」 「新見さん、よくそのこと亮子に話したわね」 「彼だって、どうしていいかわからないの。だから、あたしに助けを求めたのよ」 「新見さんだけが男じゃないでしょう。亮子には他にも生きる道はあるんじゃないの、と言ったらどうするの」 「あたしを試しているの」 「だって、その男は五千万円を恐喝しているわけでしょう。どんな危険が待っているかもしれないし、亮子の覚悟を聞いているのよ、いいかげんな気持ちでは怪我するわよ」 「そうよね」  と亮子は考え込んだ。あっさり警察に届けられる問題ならいい。だけど、日記の内容については美樹は思いもつかないことである。新見学園の浮沈に関ることだったら、警察がタッチしたら藪蛇になる怖れもある。 「そのことについては、もう一度話合うことにしない。あたしも少し考えてみる」 「そうね、あたしも、晋ともう一度、話合ってみることにするわ」  美樹は、雅比古に電話するのを忘れていた。今朝は、昼すぎに電話する、と言いながら、亮子の電話でつい忘れていたのだ。もっとも昨日の豪雨の中でのことは、すんだことだし、何も起るわけがない、と安心しきってもいたのだ。思い出して、 「ちょっと電話してくる」  と言い、席を立った。店の入口にある赤電話で、雅比古の家のダイヤルを回した。呼出し音二つでつながった。 「どこにいるんだ、どうして電話くれなかったんだ」  いきなり雅比古の激しい声がとび込んで来て、美樹は受話器を耳から離した。 「どうしたの、何かあったの」 「とにかく、すぐに来てくれないか、電話では話せない」 「わかったわ、三十分でそちらにいくわ」 「待っている」  電話はむこうから切れた。  何が起ったのかわからないが、雅比古の声はただごとではなかった。昨日の豪雨の中のことに関ることなのか、それとも別の何かなのか、こうなると亮子のことにはかまっていられなくなった。 「ごめんなさい、急用ができたの」 「そう、あたしも一緒に出るわ」  急いで会計をすませた。エレベーターで一階に降りると、その前でタクシーを止めた。 「亮子、あなたのこと考えておくわ」 「明日にでも電話するわ」  美樹は手を振ってタクシーに乗り込んだ。  そして、きぬた、と運転手に言った。     3  雅比古の家に入るなり、彼がとんで来て、 「きみのせいだよ」  と叫ぶように言った。 「春江さん、もどって来ているんでしょう」  というと、雅比古は唾《つば》をのみ込み、胸を押さえた。お手伝いに聞かれてもいいことか、と尋ねたのだ。奥から、着物姿の春江が姿を見せた。 「美樹さま、いらっしゃいませ、箱根はいかがでございました」  春江は五十二歳になり、丸々と肥っている。中年女の体つきだ。だが、よく働く女でもある。いまどき和服の女は珍らしいが、和服がお手伝いのユニフォームとでも思っているのか夏でもしっかりと着物を着ている。 「箱根は楽しかったわ。春江さんもゆっくりできたんじゃないの」 「ええ、娘の家でゆっくりさせてもらいました。孫が三人もいましてね、どうぞ」  と言い、お茶でも淹《い》れるためか、奥へ引っ込んだ。居間に上ってソファに坐る。たしかに春江がいたのでは話しづらいことだろう。だが、すでに午後九時をすぎている。用を言いつけて外に出すわけにはいかない。  春江がお茶を運んで来た。 「美樹さまは、いつもおきれいで」  とお世辞を言う。もっとも、春江の娘に比べればたしかに美人だろう。雅比古はいらいらしている。彼女は、雅比古と美樹が、来年結婚するであろうことは知っている。結婚すれば春江にとって美樹も主人ということになる。その辺はよく心得ている女だった。  春江は、この神崎家に来て二十年になる。ずっと雅比古の世話をして来た女でもあった。それでも聞かれたくないことはあった。 「雅比古さん、ちょっと多摩川べりをドライブしたいわ」 「そうだな、川べりは涼しいかもしれんな」 「どうぞ、いってらっしゃいまし」  雅比古はそのままの姿で車庫に回った。美樹は表に出た。出て来たクーペに乗る。車は迂回して世田谷通りに出た。昨日のあの場所は通りたくなかったようだ。 「ヘンな男から電話があった」  雅比古はそう言った。 「昨日のあのことで?」 「そうだよ、その男は、あの豪雨の中でぼくの車を見ていたと言うんだ。車のナンバーから、ぼくのことを知ったと」 「…………」 「やっぱり、あのとき、あの老婆を車に乗せて、病院に運ぶべきだったんだ。きみが止めさえしなければ」 「あたしを責めているの」 「そうだよ、いや、自分を責めているんだ、自分の意気地なさを。きみが悪いんじゃない。ぼくがその気になっていたら、きみを振りきってとび出せた。ぼくにも逃げようという気があったんだ」 「しっかりして。あなたは何もしていないのよ。車には傷一つないじゃないの」 「そういうわけにはいかないよ。その男はぼくが撥《は》ねたと思っている」 「どういう男なの、くわしく話して」 「わからない。妙に丁重な言葉でね、若くはないな、五十すぎ、いや六十すぎかな」 「それで何と言ったの」 「ぼくが、神崎八重の息子であることを知っていた」 「お金なの」 「そうだろうな、だけど具体的には何も言わない。今夜十一時にまた電話する、と言った。まだ要求する金額を決めかねているのかな、それとも恐喝するのをためらっているのかな。そんな悪そうな男には思えなかったけど」 「脅しておいて善人であるはずはないわ。そうじゃないわね。善人でも豹変するかもしれない。あなたが神崎商事の専務と知り、神崎八重の次男と知ったら、お金になるかもしれないと考える。誰も知らないあなたの秘密を見てしまった。翌日の新聞で事件にならないことを知った。だけど、自分の証言で事件になる。その秘密を金に換えようと思う。悪人でなくてもそう考えて当り前かもしれない」 「きみ、美樹さん」 「雅比古さんだって、わかっているはずよ」 「そう、わかっているんだ。あのとき、たとえ婆さんに接触しなくても、ぼくの過失責任はある。ぼくの車が婆さんのそばを通らなかったら、転ぶこともなかったし、コンクリートで頭を打つこともなかった」 「よく説明すれば、警察もわかってくれるかもしれない。でも、出頭してどう説明するの。撥ねた覚えはないって? ではなぜ警察に来たのかってことから説明しなければならないわね。それとも電話して来た男を訴えるの? 恐喝容疑で。相手は亡くなっているのよ。これがマスコミに知れたら、お母さまの立場はどうなるの、神崎八重の次男が、老婆を轢《ひ》き殺した。そう書かれたら?」 「だったら、どうしたらいいんだ」  老婆には触ってもいない。老婆の体には打撲傷はなかったはずだ。だから、警察でも自分で滑って転んで頭を打って死んだと発表した。だが、目撃者が、そばをすれすれに雅比古の車が走り去ったと証言すれば、事情は全く違ったものになる。警察は目撃者の証言を重視するに違いない。 「自首したら、遅いだろうか」 「目撃者の証言を裏付けることになるわね。そしたら、轢き逃げしたのと同じ罪になるんじゃないかしら。その辺の裁判所の判定はよくわからないけど。お婆さんの死とあなたの車の運転の関連性は当然に出てくるわけでしょう。あなたの車が走っていなければ、お婆さんは、転びもしなかったし、頭を打つこともなかった」 「電話の男、相手にしなければ警察に行くだろうか」 「警察に行かなくても、投書くらいはするかもしれないわね。あのとき、あたしが止めなければよかったのね」 「きみが悪いんじゃない。あのときぼくだって逃げたかったんだ」 「あたしにまかせておいて」 「どうするつもりだ」 「その男と話合ってみるわ」 「ぼくがあのとき、お婆さんを病院に運んでいれば」 「雅比古さん、そんなに自分を責めないで、何とかなるわよ」  多摩川の土堤の上に車を止めた。美樹はドアを開けて車の外に出た。そうしてモアを咥《くわ》え火をつける。草むらでは、虫たちがしきりに鳴いていた。もう秋なのだ。昼間の暑さを思うと、川面を渡ってくる風は冷んやりとして涼しい。  むこうの鉄橋を小田急線電車が轟音とともに渡っていく。ふと目を移すと、草むらの中に、あちこちアベックが肩を寄せ合っていた。  老人というのは、運動神経も鈍り、足腰も弱っているのに大胆なことをする。交叉点でない車道を平気で横断する。そばに歩道橋があっても、それを渡るのは面倒なのだ。車は自分の前で止ってくれるものだと信じているところがある。  どうして、あのどしゃ降りの中を車道を横断しようと思ったのか、あと五分待てば雨も弱くなっていただろうに。そこを通りかかった雅比古が不運だったということか。もちろん不運だけですまされることではなくなっている。 「雅比古さん、あなたは何もしなかったのよ。あのとき車を運転していたのはあたしなの」 「それは無理だよ、美樹さん」 「いいえ、そうするしかないわ、お母さまの名前を出さないためには」 「しかし」  雅比古は、車の中で呟くように言った。  あのとき、自分の判断が間違っていたのだ、と美樹は思う。彼が車を出ようとするのを止めたのは自分なのだ。  電話の男と対決するしかないだろう。そのことに美樹はためらいはなかった。 「大丈夫よ、あたしにまかせておいて、うまくやるわ」 「それでは、ぼくは卑怯者になってしまう。きみを身代りにするなんてできないよ」  美樹は、モアの吸殻を足もとに落し、ハイヒールで踏みにじった。それで決意みたいなものが体の中に生まれて来た。     4  美樹は、雅比古の書斎にいた。  この二階建ての家は、土地が五十坪ほどある。世田谷区の砧といえば、小田急線の成城学園駅にも近いし、高級住宅地である。このところの地価高騰で、いまでは坪三百万とも五百万ともいわれている。この土地は、二十数年前、父義彦が雅比古のために買ってくれたもので、別れた玲子と結婚するときに家を建ててくれたのだ。  いまは、お手伝いの春江と二人で住んでいるが、来年には美樹もこの家に入ることになる。  美樹は、椅子に坐ってテレビを見ていた。テレビでは、公民党委員長の神崎八重が、あるパーティで演説しているシーンが映し出されていた。ビデオである。  政府は、早い時期に減税案をまとめようとしている。減税するには財源がなければならない。その財源を一般消費税と、国民の預貯金のマル優廃止によって得ようとしていた。神崎八重は野党として、一般消費税に反対し、世論を盛り上げて成功した。そして、いまはマル優制度廃止反対に取りかかっている。  庶民のささやかな預貯金の利子から税金を取るのは止め、財源は他に求めよ、と八重は主張する。減税はたしかに必要だが、その減税は一般庶民には薄く、中産階級に厚くなっている。これは公民党にとっては阻止しなければならないことだ。  美樹は、八重の演説をぼんやり聞いていた。政治演説なんてどうだっていい。減税も、一般消費税も興味はない。だが、テレビの中の神崎八重は、やがては自分の義理の母になる人でもあり、八重に気に入られなければならない。事実、八重にも紹介され、美樹は好感を持たれていることを知っていた。  将来、八重は、長男の達彦には神崎商事を継がせ、雅比古には自分のあとを継がせ代議士にすることを、ほのめかせていた。地盤も看板もある。それに雅比古は長身で甘いマスクをしている。婦人票を集めるに違いない。婦人票というのは立候補者の容姿で動くものである。  だが、雅比古は政治家になるには、気が弱すぎる。政界というのは魑魅魍魎《ちみもうりよう》の世界である。化けものがぞろぞろいる。そういう中で生きていくには、雅比古ひとりでは無理だろう。だが、彼に信頼できるアシスタントがいれば政治家にもなれないことはない。そのアシスタントを、八重は美樹に求めているのだ。美樹だってそれに応えたかった。負けてはいられない、という気持ちが彼女にはあった。 「そろそろ、電話が入るころだな」  と雅比古がテレビを消そうとする。午後十一時にあと数分だった。だが、美樹は彼の手をやんわりと押えた。脅迫電話を息を殺してじっと待つつもりはなかった。 「お母さまのお話をもう少し聞いていたいの」 「きみって強いんだね」  男が弱ければ女が強くなるしかない。八重がマイクに向って熱く喋っている。十一時の時報がなった。雅比古は電話機に気持ちを集中させている。  一分、二分と過ぎる。電話のベルが鳴った。雅比古がびくっとして立ち上り、急いで受話器を把《と》ろうとした。美樹はその手を押えた。彼の手を放し、呼出し音が三回、四回と鳴るのを待った。雅比古がテレビを消そうとするのも止めた。  そして、七回目の呼出し音の途中で、受話器を外した。 「神崎でございます」 「あの、神崎雅比古さんはおいででしょうか」 「はい、おりますけど、どちらさまでございましょうか」 「昼間、お電話さし上げた者とおっしゃっていただければわかりますが」 「お名前は」 「それは、いまは申し上げたくないのですが」  枯れた男の声である。若くはない。五十代か六十代か、美樹は、おそらく痩せた男だろう、と思った。太くもないし威圧するような声でもない。 「わたしは、神崎雅比古の家内でございます。ご用件は、わたしが代ってうかがいます」  男はしばらく黙った。雅比古はそばに黙ってつっ立っていた。 「神崎さんは、三年前に離婚されて、いまは独身のはずですが」 「よくご存知ですね」  相手は雅比古のことをよく知っているようだ。聞いて回ったのか、それともはじめから事情を知っている男なのか。 「わたしは、美樹と申します。半年後には雅比古の妻になるものです」 「なるほど、クーペの助手席に乗っておられたのはあなたですね。神崎さんに代っていただけませんか」 「ご用件は、わたしがお聞きします」  男は、むこうで息をついた。当然男だって用心している。 「ミキさんとおっしゃいましたか」 「はい」 「神崎さん直接よりも、あなたのほうがいいかもしれません。実は、ぼくは昨日、午後五時七分ころだったと思います。どしゃ降りの雨の中で、走って来たクーペが、お婆さんを撥《は》ねたのを目撃したのです」  うかつに返事はできない。相手が録音していないとは限らないのだ。耳をすまして男の背後の声を聞こうとした、が何も聞えて来ない。駅や街の中の電話ではないようだ。また喫茶店のような所からでもない。自宅からだろう。 「そのお婆さんが亡くなったことは、そちらも新聞でご存知のことと思います。ぼくは、そのお婆さんの身内とか知人とかいうのではありません。通りがかりに、雨やどりしていて見てしまったのです」 「それで」 「クーペのナンバーをメモしておいて、あとで調べてみたら、神崎雅比古さんの車でした。新聞には、お婆さんが豪雨の中、滑って転んで頭を打って亡くなったとありました。クーぺについては何も書いてありませんでした。おそらく目撃したのは、ぼくだけだったのでしょう」 「目撃なさったことを、どうしてすぐに警察にお話しにならなかったんですか」 「そうしようと思いました」 「そうなさればよろしかったのに」 「ほんとに、そうしたほうがよかったのでしょうか」 「あなたが、そうしたいとお思いになるのでしたら、わたしには止めようがありません。お名前もお顔も知らないのですから。それに、あなたも、そのお婆さんをお助けにならなかったんじゃありませんか。もしかしたら、あなたが人を呼んでお婆さんを病院に運んでいたら、助かったのかもしれませんね」 「いや、無駄だったでしょう。お婆さんは、あのあともびくとも動きませんでしたから」 「すると、あなたも黙って見ていただけなんですね」 「まいりましたな」  男は笑った。 「あなたは、その目撃したことが、お金になるとお考えになった。それで黙って立ち去った。そうですね」 「そうおっしゃられると、言い出しにくくなりましたね。あなたは頭のいい方のようですな、ぼくも同罪とおっしゃりたいのですね」 「いいえ、そうは申しておりません。このことが事件になっても、神崎雅比古は失うものが大きいけど、あなたは失うものがない。そういうことじゃないんですか」 「ぼくにも失うものがないわけではありませんが、弱りましたな、あなたのような方を相手にするとは思いませんでした。ぼくは、あなたにはかなわないようです。ぼくの電話のことは忘れていただけませんか、恐ろしくなりました。自分のやっていることが」 「ちょっと待って下さい」  美樹は相手が電話を切りそうになったのであわてた。 「ぼくは、何も見ませんでした」 「それではすみません。あなたはすぐに忘れてしまえるのでしょうが、わたしはそうはいきません、気になって夜も眠れなくなります」 「そうでしたね」 「電話ではよく意思が通じません。お会いできませんか、明日にでも」 「でも、お会いすれば、ぼくの顔をあなたにさらしてしまうことになります」 「切らないで下さい」  美樹は叫ぶように言った。男はしばらく黙った。だが、まだ切れてはいない。 「ぼくの呟きと思って聞いて下さい。ぼくは三年前に停年を迎えましてね、いや、小さな会社のサラリーマンでして、退職金もたいしたことはない。それに、まだオヤジの墓も立ててやっていないんですよ。それで、ふっと墓を立てられるかもしれない、と考えたのですよ。いいえ墓なんてのはどうだっていいんですよ。人間、欲が出ると迷うものですよ。ぼくも、あなたたちと同罪であることを忘れていました。お互いに忘れましょう。ぼくの思い違いでした」 「いくらあれば墓は立つんですか」 「いや、いいんですよ、墓なんかなくったって、ぼくもどうにか生きていけます」  電話はそこで切れた。美樹は雅比古を振りむいた。彼は椅子に坐って煙草に火をつける。妙な結果になってしまった。相手は恐喝するつもりが、途中で自分のやっていることがいやになったらしい。  もともと悪い男ではなかった。あの光景を目撃して、ふと魔に魅せられたのだ。だが、結果的にはよくなかった。また、まだ終ったわけでもなかった。何か砂を咬《か》むようなザラリとしたものが残った。男は忘れましょう、と言ったが、またいつ思い出すかわからない。 「ごめんなさい」 「美樹のせいじゃないよ」  雅比古は、書棚の中からブランデーを持ってくるとグラスを二個テーブルの上に置き、琥珀色の液を注いだ。そのグラスの一つを手にとった。 「悪い人じゃなさそうじゃないか」 「雅比古さんは忘れられるの、気にならないの」 「気にならないといえば嘘だろうな」 「お金に困っている人だったようよ、貧すれば鈍するっていうわ。それでなくても人には欲というものがあるわ」 「だけど、こちらには方法がない」  美樹はブランデーグラスを口に運びながら、首を回して部屋の中を見た。天井まで届く書棚には、びっしり書物が詰っていた。本好きなのだ。古代史から学術書、文学書のたぐいまでずらりと並んでいた。  お金をせびり取る度胸がないんだったら、はじめから電話しなければよかったのだ。電話一本のために、二人の気持ちはずしりと重くなった。相手が何者かわからないだけに、かえって気になる。  二章 蝮毒殺人     1  九月一日は火曜日である。  小銭亨《こぜにきよう》は、地下鉄を新宿三丁目で降りた。暑くて汗が顔や首筋に流れ出る。まだまだ暑い日は続きそうだ。彼はいつもズボンのベルトに団扇《うちわ》を差している。涼をとるにはこれが一番だ。破れても忘れてもたいして気にはならない。団扇を使いながら地上への階段を上る。伊勢丹デパートのわきを三光町に向かって歩く。  身長一七六センチ、体格だけはがっしりと逞しく、腕には筋肉がついて太かった。高校、大学と空手をやっていたせいで、その筋肉がまだ残っている。  亨は三十一歳、定職に就かず、アルバイターとして収入を得ている。気楽な独身貴族を気取っているわけではない。検事を目ざして司法試験を毎年受けているが、すでに八回も落ちている。そろそろ自分の能力に嫌気がさしている頃でもあった。  三光町の八階建ての『あさひ』ビルに入る。そこでホッと息をつく。エアコンが快くきいているのだ。エレベーターで六階に上る。廊下を曲ったところにある、『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』と金文字で書かれたドアを押す。彼はこの事務所の調査員のアルバイトをしている。常勤というわけではない。仕事のあるときだけ呼び出されて調査に歩きまわる。  部屋は二つあった。一方は弁護士事務所で、一方は調査員の部屋になっている。ドアを入った右手のドアを開ける。そこに四十ばかりの男が一人いた。飯田という元刑事である。背丈は亨よりもずっと低いが肥って丸い体をしている。  調べた内容を報告する。 「そう、さっき、平栗《へぐり》という人から電話があった。警視庁の捜査一課の刑事と言っていた」 「へぐり、へぐりですか」  聞いたような名前だが、とっさに思い出さない。へぐりという姓は珍らしい。そんな友だちがいたような気もする。 「何か事件のようだった。すぐに電話をくれと言っていた。平《たいら》の栗《くり》と書くそうだ」  飯田は電話番号を書いたメモを渡した。とにかく電話のボタンをプッシュする。直通電話だった。平栗の名を告げると、すぐに代った。 「ぼくは、小銭ですが」 「おお、小銭亨か、おれは平栗|良三《りようぞう》だ。忘れたか、N大の法学部のとき一緒だった」 「思い出した。いや、すっかり忘れていた」 「おまえを探していた。大学の同窓会名簿であちこち探した」 「何か用か」 「小銭|徳次《とくじ》、おまえの親父さんじゃないかと思ってな」 「オヤジだ。オヤジがどうかしたのか」 「やっぱりそうか、小銭という姓は珍らしいからな、ふとおまえを思い出したんだ。そうだったか」 「オヤジがどうかしたのか」  父親徳次は、九州・福岡に墓参りに行っている。今日帰ってくることになっていた。 「小銭徳次さんは、寝台特急『さくら』の中で亡くなった」 「なにっ、オヤジが死んだ? 冗談ではないだろうな」 「おれが、そんな冗談を言うと思っているのか、名前は名刺でわかったが、住所には電話しても誰も出ない。それでおまえを探したんだ」 「死んだって、どういうことだ」  亨は父親と二人暮しだった。 「一応、変死という形になって、解剖した。電話では説明しにくい」 「どこへ行けばいい、オヤジはどこにいるんだ」 「大塚の監察医務院だ。おれもそっちへ行く。そこで会おう」 「わかった」  受話器を置いた。 「どうした。お父さんが亡くなったのか」  飯田が声をかけた。 「そうらしいんですが、まだわかりません」 「確認したら、すぐに電話を入れてくれないか、事務所としては、できるだけのことはさせてもらうよ、畔倉先生にも言ってな」 「お願いします」  と言って、事務所をとび出した。一体どういうことなのだ、と呟く。小銭徳次、あちこちにある名前ではない。それもブルートレインの『さくら』の中で死んでいたという。徳次が『さくら』に乗っていた可能性はある。急病だったのか。もちろん列車の中で死ねば変死あつかいになることは知っていた。だが、顔を見てみなければ、親父かどうかはわからない。別人であって欲しい、と思いながら八十パーセントは親父だろうという気がする。  亨は、新宿駅まで歩いて、山手線電車に乗った。タクシーに乗ることも考えたが、彼にはタクシーに乗る習慣はなかった。それにすでに死んでいるのであれば急いだって仕方がないのだ。 「オヤジが死んだ」  と呟いてみる、が実感があるわけはない。徳次は福岡の生まれで、両親の墓は福岡の外れの寺にある。墓と言っても、寺のわきに堂があって、まるでアパートのように、小さな墓が並んでいる。それが小銭家伝来の墓だそうだ。その墓には七年前に亡くなった亨の母の遺骨も入っている。それで彼も三回ほど徳次に連れられて行ったことがあった。 「ちょっと福岡の墓参りに行ってくる」  と言って徳次が家を出たのは、八月二十八日だった。  大塚駅で電車を降りる。監察医務院まではタクシーに乗った。玄関を入り、受付に歩み寄ると、 「小銭」  と声を掛けられた。振りむくと亨に似た体つきの男が立っていた。 「平栗か」 「久しぶりだな、こんな形で会うとは思っていなかった。そのことはゆっくり話そう。こっちだ。遺体は霊安室にある。まず、おまえに遺体確認をしてもらわなければならん」 「わかっている」  病院の廊下を歩き、地下への階段を降りる。エアコンはよく利《き》いていた。コンクリートの箱のような地下に降り、霊安室と名札の下ったドアを開ける。霊安室の中は更に冷んやりとしていた。  小さなベッドのような台の上に白布が掛けられている。その白布が盛り上っていた。平栗刑事が白布をめくる。彼が、どうだ、と言うように亨の顔を見る。 「オヤジだ」  低い声で言った。 「そうか」  平栗は、口の中でぶつぶつと言った。お悔みを述べたつもりだろう。 「聴きたいことがある」 「わかっている。その前に電話させてくれ」 「ああ、電話は廊下の突き当りにある。おれはここにいる」  亨だけが室を出た。妹の友子と弁護士事務所に電話を入れて霊安室にもどった。 「これが、お父さんの遺品だ」  テーブルの上に、徳次が持っていたものと思われる小物が並べられていた。 「一応、調べさせてもらった」 「オヤジの死因は何だ」 「蛇毒死ということになった」 「蛇毒?」 「いま、解剖した医者に会わせる」 「寝台車に毒蛇がいた、というのか」 「そういうことになるな、ちょっとこれを見ておいてくれ」  と言って平栗は白布の端をめくった。そこは徳次の尻のあたりだった。その一部分を指さした。ほんの少し青く腫《は》れていた。 「ここに、蛇が咬《か》んだあとがある。小さいが二ヵ所だ。この二つが蛇の牙のあとらしい。医者がそう言った」 「ふむっ」  と亨は小さく唸った。 「いま、丸の内署とJR東京で、問題の車輛を探している」 「だが、どうして毒蛇が」 「それはわからん。どこかでまぎれ込んだのか、それとも誰かが持ち込んだのか、とにかく行こうか」  と平栗がうながした。エレベーターで四階に上る。監察医の氏名の書いてあるドアを開ける。スマートな初老の男が机に坐っていて、二人を見ると、立ち上った。 「お世話になりました」  と頭を下げる。まあ、どうぞ、と応接セットに手をのばした。平栗が亨を紹介する。 「ほんとに毒蛇に咬まれたのですか」 「説明しますので、まあ」  と監察医は二人の向いに坐った。 「近ごろ、蛇毒死は珍らしいことです。それに私は専門ではありませんのでね」  監察医は、まずそう言った。 「われわれも、はじめは心臓死かと思ったんです。尻の青い浮腫《ふしゆ》をみつけるまでは。蛇毒というのは、意外にまだわかっていない所がありましてね。症状が心臓死に似ているんですな」  ここで口出ししてもはじまらない。黙って監察医の話を聞くことにした。 「毒蛇に咬まれたとき、それほど痛みは覚えないようです。でも、咬まれた皮膚には必ず二つの毒牙のあとが見られます。蛇の牙は、ポンプ式になっていまして、毒が無駄なく注入されます。この傷あとを中心に青味をもった強い浮腫が現われます。ごらんになりましたか」 「はい」 「毒が広がるにつれて、毒がリンパ管を通って体内に侵入していき、三十分から一時間で全身症状が現われ、高熱、悪寒、めまい、吐き気、嘔吐があり、更に進むと、血圧、体温は下降し、動悸、頻脈、冷汗、苦悶の末に虚脱状態に陥り、死を迎えることになります。この症状は心臓発作に似ていましてね」  聞きたいことはいくつかあったが、それは平栗に聞くべきだろうと思い、亨は監察医に先をうながした。 「蛇毒には、神経毒と出血毒がありましてね、今度の場合は、出血毒のようです。日本には沖縄にハブがいまして、これは神経毒です。出血毒はまむしですね。お父さんはまむしに咬まれたようです。まむしは九州から北海道までどこでもいますからね。まむしが出るのは七、八、九月、つまり、いまがまむしの出る時期なんです。もっとも毒蛇は三百種といわれていて、その毒はいろいろと混り合っていて、なかなか分析はできません。毒蛇を研究している所が群馬県にありまして、ワクチンの製造に成功していると聞いています」 「そのまむしに咬まれたら、どれくらいで死ぬんですか」 「毒の強弱と量にもよりますが、一般には二時間と言われています。もっとも猛毒が血管に直接入ると三十分もたない、と言われています。そう、一つ忘れていました。お父さんは、睡眠薬を常用されていましたか」 「そう言えば、母が死んでから、よく使っていたようですが、睡眠薬も出たんですか」 「ええ、血液の中から検出されています」 「寝台車の中にまむしがいたとは、ちょっと信じ難いことです。誰かに、蛇毒を注入されたということは、可能性としてですが」 「毒牙のあとが二ヵ所あります。可能性がないことはありません。蛇毒液を注射器で二度注入すれば、蛇に咬まれたのと同じになってもおかしくはないですね。その辺は警察の仕事だと思います。蛇毒の成分というのは単一ではなく、構造不明の化合物の集りでしてね、専門でもまだわかっていないはずです。ただ、さっき言ったように神経毒と出血毒に分類されるくらいで、神経毒はコブラ科、出血毒はマムシ科で、双方の作用が混り合っている蛇毒もあるわけです。今回のはまむし毒に間違いないと思っています」 「蛇毒が殺人に使われたケースは、あるんですか」  と平栗が聞いた。 「日本では、私は聞いたことはありませんが、数年前にアメリカではあるそうです。妻に生命保険を掛けておいて、毒蛇を放って殺したケースが」  これ以上のことは聞けそうもないので、監察医に礼を言って室を出た。 「平栗、警察ではどう見ているのかな」 「いまのところは、事故死だな。他殺はむりだと思うよ。それとも、お父さんが誰かに殺された、と思い当ることでもあるのか」 「それはわからん」 「上のほうでは、事件にはしないだろうな、だが、おれは少し調べてみたい。寝台車に毒蛇となると、これはJRのダメージは大きい。まだマスコミには伏せてある」 「とにかく、オヤジの葬式が終ってからだな」  二人はエレベーターで再び地階に降りた。妹の友子が子供を連れて来ていたし、事務所の飯田調査員も姿を見せていた。  平栗は、徳次の遺品の中から、扇子《せんす》を手にとった。そして拡げる。 「おまえのお父さんは、漢詩でもやるのか」  亨は、扇子を手にしてみた。そこには墨字が書かれていた。漢字が並んでいるが、意味はわからない。 「お父さんの字か」 「そのようだな」   紳綺雌北枯   祥峡鴉頃胡   狄仮悔   移塀楠   礫投転刹   徳治  以上の文字が扇子に書かれていた。     2  亨は、椅子に坐って、ぼんやりと窓の外を見ていた。団地の五階である。振り向くと、机の上に父親の遺骨と位牌《いはい》が乗っていた。葬式が済んでまもなかった。今日は九月三日、木曜日である。 「オヤジの一生は何だったのだろう」  と思ってみる。六十二年間の一生はたいして恵まれもしなかったようだ。葬儀もひっそりとしたものだった。徳次は、ついに自分の家を持てないで終った。ずっと団地住いだった。そのことを別に憐れだと思っているわけではない。  亨は、自分がこの三日間、意外に冷静だったことを思ってみる。涙一滴流していない。哀しくもなかった。そのことが不思議でもあった。  マイルドセブン・ライトを咥《くわ》えて火をつけた。そのとき、電話のベルが鳴った。立って受話器を把《と》る。 「亨」  と女の声が言った。 「ああ、涼子《りようこ》か」 「落ち込んでいるんじゃないんでしょうね」 「何もやることがない」 「ちょっと出て来ない。あたしいま新宿にいるの、亨に用があるのよ」 「わかった、出かけよう。一時間でそこに行くよ」  彼は喫茶店の場所を聞き、受話器を置いて外出の仕度をする。  津知田《つちだ》涼子、大学が亨と同期で、同じ法学部だった。また司法試験も同じように受け、彼女は三年前に合格し、いまは『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』の一員である。亨が調査員のアルバイトをしているのも、涼子の誘いだった。  亨が店に入ると、涼子はむこうの席で、読んでいた文庫から目を離し、彼を見た。小柄だが、育ちのいい可愛い顔をしている。小柄だから、とても三十一歳なんて見えない。 「亨、少し元気ないみたいね」 「そうでもないけど、ここ二、三日はぼんやりしていた」 「亨らしくないわ」 「元気だけが取り柄のおれがか」 「そうよ、萎《しな》びていたんじゃ亨じゃないわ」 「用って何だい」 「平栗良三に会ったわ」 「ああ、そう言えば、涼子も知り合いだったんだ」 「そう、平栗とは、弁護士と刑事として何度か会っているの。だから、亨があたしの事務所にいるんじゃないかって、平栗は電話して来たのよ」 「あいつ、そんなこと言わなかった」 「亨のお父さん、殺されたのよ」 「平栗がそう言ったのか」 「蝮《まむし》の牙のあと、彼は測っておいたのね。二つの牙のあとは、蝮にしては広すぎるんですって」 「広いって何のことだい」 「亨らしくないわね。お父さんの蝮の牙のあと、二つの牙の間を彼は測ったのよ。それを蝮の専門店に行って調べたんですって。蛇料理を食べさせるお店があるでしょう。そこへ行って蝮の二本の牙の距離を調べてもらったら、そんな大きな蝮はいないって言われたそうよ」 「するとどういうことになるんだ」 「つまり、誰かが注射器のようなもので、蝮の毒を注入したのよ」 「どうしてそんなことをしたんだ」 「お父さんを殺すためよ。いいえ、蝮に咬まれて死んだと見せかけるために、二ヵ所に刺したの。平栗も、これはコロシだって言っていたわ」 「すると、殺人事件の捜査本部ができた?」 「そこまではいかないらしいけど、警察もはじめに事故死と決めてしまったものだから、捜査本部を設置するのに迷っているのね」 「すると、九月一日の『さくら』の列車からは蝮は出なかった」 「出るわけないでしょう」 「おれも、はじめはオヤジは殺されたんじゃないか、と思ったけど、オヤジがなんで蛇毒で殺されなきゃならないんだ。誰がそんなことを」 「それはわからないわ」 「オヤジは、小市民の典型のような男だった。オヤジがそんな人に恨まれるようなことするわけないし、第一、オヤジを殺して誰が得をするんだ」  亨はベルトに差していた扇子を取り出すと、それを開いてあおいだ。団扇を扇子に換えたのだ。クーラーはよく利いていた。扇子を畳んで、運ばれて来たアイスコーヒーに口をつける。そして、煙草を咥えた。涼子がライターをさし出した。  二人とも黙った。亨の脳は閉じられている。徳次の死が彼にショックでないわけはなかった。いま亨はその脳を開こうとしているようだった。 「お父さん、どうして福岡に行ったの」 「墓参りさ。オヤジは福岡の宗像《むなかた》ってところの生まれで、先祖の墓はむこうにあるんだ」 「九州のお盆は八月ですってね。でも、八月も末よ、どうしてそんなときに行ったのかしら」 「思いついたんだろう」 「お墓参りには、何か理由があったんじゃないの」 「えっ?」  と亨は涼子を見た。 「その辺から調べてみたら、何か出てくるんじゃないかしら」 「涼子は、何を考えているんだ」 「お父さまが殺されたのだったら、亨がその犯人を探すべきじゃないの」 「そういうことか」 「これ」  と言って、涼子はテーブルの上に厚い封筒を置いた。その封筒と涼子の顔を見比べた。 「何だいこれ」 「百万円入っているわ。それを使って。捜査にはお金がいるわ」 「どうして、涼子がおれにこんなお金を出すんだ」 「あたしは亨のスポンサーよ。うちにはお金はあり余ってるの、使って欲しいのよ」 「涼子は、おれに惚れてるってわけだ」 「そう思ってもらってもいいわ。亨の粘り強いところが好きなの。遠慮しないでね」 「わかった。使わせてもらうよ。一度は、オヤジの骨を納めに福岡に行かなければならないと思っていたんだ。頭は悪いけど粘りは強いか」 「そうよ、亨の一番いいところよ」 「金も、水と同じで高きより低きに流れる」 「そう思ってくれると、あたしの気持ちも軽いわ」 「涼子の家は財閥だからな」  時計を見た。まだ正午前だった。たしか寝台特急『さくら』は午後四時か五時だった。  これから団地に遺骨を取りにもどっても間に合う。 「これから、さっそく出掛ける。いいか」 「その気になったのね」 「福岡に着いたら、電話を入れるよ」  と言い、亨は扇子を手に立ち上った。封筒はポケットに突っ込んだ。     3  寝台特急『さくら』は、東京駅を一六時四〇分発である。すでに夏休みは過ぎているので、列車は空いていた。B寝台六号車の座席に亨は坐っていた。寝台は二段になっている。座席は5下である。5と6が向い合っていて、四人席になる。その四人席に亨は一人だった。  上段の通路側に棚がある。そこに風呂敷に包んだ遺骨を置いていた。たしか、むかし福岡に行ったときには、上中下と三段ベッドだった。二段ベッドになって、わりに空間は広い。  座席に坐って大きく息をついた。寝台車に乗ったのは久しぶりだし、旅行もこのところしていなかった。横浜から次は沼津、富士、静岡と止る。まだ外は明るい。沼津を発車したところで、目の前に黒い影が立った。 「平栗じゃないか、どうしたんだ」 「涼子から電話もらってね、おれもおまえについていくことにした」 「仕事か」 「いや、休暇をもらった。係長に頼んでな」  平栗は向いに坐った。通りかかった車掌に声をかけ、彼は亨の向いの席をとった。席はいくらも空いていたし、彼は入場券で乗り込んだらしい。 「おまえに会ってから行こうと思ったけどな」 「そうだよ、小銭、おまえは気が早すぎる。おれの話を聞いてからでないと、動けるわけはないだろう」 「涼子もいろいろと手を打ってくれるよ」 「いや、半分は仕事なんだ。事件になるかどうか、調べなければならんのでな。どうだ。食堂車に行かんか」  隣りの五号車が食堂車だった。乗客が少ないだけに、食堂車も空いていた。テーブルに向い合って坐る。ビールを頼んだ。食堂車の営業は十一時まで、時間はたっぷりとあった。 「平栗、おまえとこうして旅するとは思わなかったな」  平栗良三も三度、司法試験を受けたが三度とも落ち、諦めて警察官になった。いまは警部補だという。亨は八度受けて八度落ちている。まだまだ挑戦するつもりでいる。 「おれは、おまえほど執念深くはなれんな」 「他にやることがない」  ビールをグラスに注ぎ、お互いに持ち上げた。それを一気にのんだ。 「まず、おまえの親父さんの亡くなった状況を説明しておかなければならんな」 「たのむ」  小銭徳次は、八月三十一日、寝台特急『さくら』に博多から乗り込んでいる。特急券、乗車券とも、売られたのは東京・新宿で、往復『さくら』だったようだ。券を買ったのが本人かどうかはわかっていない。  七号車3上席だった。博多発は一九時四五分。3下席には三十歳前後の女が坐っていた。この女は赤座加津子《あかざかづこ》という。向いの4下席には西乃《にしの》ときという六十六歳になる老婆がいた。二人の身元はわかっている。  三段ベッドのときは、博多から作業員が乗り込んで来て、座席をベッドに直していたが、二段になってからは、乗客が勝手にベッドに直して寝る。徳次が列車に乗ったときには、西乃ときは、すでにベッドに寝て、カーテンを閉めていた。だから彼女は徳次とは顔を合わせていない。彼はそのまま上段のベッドに上った。  西乃ときは、佐賀から乗り込んでいた。東京に住む息子の家に孫の顔を見に行くために列車に乗っていた。赤座加津子は、長崎から乗り込んでいる。長崎に旅行した帰りで、住いは東京である。 「この二人が容疑者になるのか」 「いまのところは何もわからん。七号車の乗客の中で、何か知っている者は一人もいなかった。何か知っているとすれば、この二人だろう」 『さくら』が名古屋に着くのは、九月一日の午前六時五一分、豊橋が七時四二分。この豊橋を発車してから、赤座加津子が通りかかった車掌に声をかけた。上段に寝ている人の様子がおかしいと。車掌が徳次に声をかける。徳次は低く唸っていた。  赤座加津子の前席の西乃ときは、早く目をさましていて、徳次の様子は名古屋に着く前からおかしかったと証言した。 『さくら』には三人の車掌が乗っている。主任車掌と車掌二人である。徳次の様子がおかしいので、車内放送で乗客の中に医者がいるかどうかを聞いたが、医者は乗っていなかった。  次の停車駅は静岡駅で、九時四分。あと一時間と少しある。主任車掌は静岡駅に救急車を手配した。徳次は体をゆすっても目を醒《さま》さない。静岡駅から救急隊員が乗り込んで来たときには、徳次はすでに息を引きとっていた。救急隊員は死亡を確認して降りた。こうなれば変死事件である。警察に連絡を取る。静岡の次は富士駅である。この駅から二人の警官と刑事が乗り込んで来たが、遺体は降ろさずに終着東京駅まで運んだ。  車掌も警官たちも病死と考えた。それで事情聴取も形だけのものになった。赤座、西乃の他の乗客にも一応は聞いたが、何も怪しい点は出なかった。 「その辺が、犯人の狙いなのか」 「隠しているとすれば別だが、赤座加津子も西乃ときも、何も異常を感じていない。二人とも、親父さんの顔すら見ていないのだからな」 「オヤジが殺された、とすれば完全犯罪か」 「完全犯罪なんてあり得ない、と刑事のおれは言わなければならないが、このまま事件にならなければ完全犯罪で終ってしまう」 「平栗、おまえは殺人事件だと考えているのか」 「もちろんだ。いまのところは蛇牙の幅だけしかないが、蝮に咬まれたものでないとすれば、コロシだ。小銭、おまえだってそうだろう。おれはとことんやってみるつもりだ」 「しかし、オヤジを殺すのに、なぜ蝮毒なんか使ったんだ。農薬とか青酸化合物とか、もっと安易な方法があるじゃないか。刃物で刺したっていい」 「蝮毒を使うには、それだけの理由があった。つまり完全犯罪を狙ったか、初動捜査をあやまらせるため、と考えていいだろう。小銭、どう思う」 「どう思う、といったって、おれにはまだピンと来ないんだ」 「おれは、事件発生からずっと考えていた。犯人は女だろうなと」 「どうして女なんだ」 「蝮毒で殺すなんて男の発想ではない。女の考えそうなことだ」 「刑事の勘っていうのは、そんなものか、第一蝮毒をどうやって手に入れる」 「蛇料理専門店で聞いたんだ。毒液はわりに簡単に採取できると言った。つまり蝮の首を掴んで牙をコップの縁に押しつける。するとガマの油ではないが、牙の先からタラタラと毒液を出すそうだ。医者も言っていただろう。蛇の牙はポンプ式になっている。つまり注射針のようになっているんだそうだ」 「だけど、女にそれができるのか」 「女というのは男よりも大胆で度胸がある。残酷なんだな。おれが行ったその蛇料理専門店では、若い娘さんが蛇を鰻《うなぎ》のようにさばいていたよ」  亨は、ふっ、と溜息をつき、煙草に火をつけた。 「江戸時代、いや明治に入ってからも、見世物の蛇使いというのは、みんな女だったそうだ。蛇淫とか言う。蛇と女は相性がいいんじゃないかな」 「蝮毒によってオヤジが殺されたということにしよう」 「あれは、蝮に咬まれたんじゃない。人間が蝮の毒液を注射器で注入したんだ」 「だったら、どうして警察は事件としてあつかわないんだ」 「はじめは病死としてあつかわれたし、解剖の結果が蛇毒死だった。これは解剖した医師の責任ではないんだが、なにせ、日本では蛇毒殺人というのは前例がないんでね。日本の警察は、馴れた事件なら優秀なんだが、はじめての事件というのは、もろい一面がある。読売ジャイアンツと同じで、はじめてのピッチャーは打てない。資料がないからだ」 「しかし、たいていは事故死と他殺の二つの線で初動捜査をやるんじゃないのか」 「たしかにその通りだ。だが蛇毒死と決った時点で事故死になった。これは警察側としてはまずかった」 「それをおまえが、二つの牙あとの距離を測って調べた」 「もちろん、そのことは係長から課長に話してある。だが、一度事故死と断定したものをすぐには殺人事件に変えられない。その辺がつらいところだな」 「警察って妙な所だな」 「お役所だからな」 「すると、警察では、まだオヤジが殺されたとは考えていないんだ」 「おれが殺人事件だと思っているよ」 「おまえ一人でか」 「もう少し材料が欲しい。だから、おれがおまえに同行した」  亨は車窓に目を移した。窓の外を夜景が流れていた。徳次は死んだ、そのことはよくわかる。だが、殺された、となると事情は全く変ってくる。世の中には殺されてもいいような人間はたくさんいる。だが、亨には、父徳次は、最も殺されそうもないたぐいの一人だったのだ。殺されるにはそれだけの動機というものがなければならない。父親に殺される動機があったとは思えないのだ。 「殺しの動機というのは、思いも及ばないところにあるものなんだ。何もしなかった、ということで殺されるケースもある。暴行されているのを見ていて手も出さなかった。それで被害者に恨まれることもある。犯罪事件を目撃して狙われることもある。当人は何も憶えていなくても、犯人のほうは見られたと思って口をふさぎにかかる。おまえの親父さんが殺されたのも、そういうことかもしれないじゃないか」 「そう言われてみればそうかもしれない」  だが、理屈としてはわかっても、実感としてはなかなか捉《とら》えにくいものだ。     4  下り『さくら』が博多駅に着いたのは、翌朝の午前八時三分、宗像《むなかた》は鹿児島本線を三十分ほど各駅停車の列車で逆もどりしなければならない。小倉で降りて各駅停車に乗り換えたほうがいいのかもしれないが、亨は子供のときから、父親には博多まで連れていかれた。博多のほうが足場がいいのだ。  東郷という駅で降りる。ここには明治の東郷平八郎元帥の遺髪を祀《まつ》った東郷神社があり、東郷公園がある。小銭家の菩提寺智恩寺はこの東郷公園の裏手にあった。  タクシーで智恩寺に向かった。タクシーを降り山門を入る。正面に本堂が見えていた。和尚の住いは裏手で別の玄関がある。左手にコンクリート造りの別の堂が見えている。その左手から奥が墓地になっているようだ。  玄関に立って案内を乞うと、三十すぎとみえる男が出て来た。有髪である。七三に分けた黒々とした髪をきれいに撫でつけている。 「和尚さんおいでですか」 「私が住職ですが」  坊さんらしくない坊さんである。サラリーマンか市役所の職員のような男だった。 「ぼくは、小銭徳次の息子で亨と言います」 「ああ、小銭さんの。先日おみえになりました」 「実は、父が亡くなりまして」 「え、亡くなった?」 「それでこうして、遺骨を収めに来たんですが」 「そうですか、それはまた、何と申し上げてよろしいのか、とにかく、むこうの本堂へお上り下さい」  亨と平栗は、本堂から上った。堂の中は薄暗くて冷んやりとしていた。堂に灯りがつき、仏さまの前に坐る。位牌と遺骨を置く。  法衣に着換えた住職が、位牌と遺骨を高い段に供え、経《きよう》をあげた。三十分ほどで読経を終え、二人に向き直った。 「そうですか、小銭徳次さんが亡くなられたのですか、急病でしたか」 「いいえ、殺されたようです」 「殺された?」 「ぼくは、小銭くんの友人ですが、警視庁刑事です。何かお話をうかがえれば、と思ってついて来たのですが」  と平栗が言うのに、住職は血色のいいつるりとした額に眉を寄せた。ものいいは住職らしくおだやかだが、言葉には九州弁がない。よそから来た住職なのだろう。彼は仏に向かって改めて合掌した。 「父は、どうしてここへ来たんですか、お盆もすぎて時期外れだと思いますが」 「墓を立てたいと申されましてね」 「墓をですか」 「ええ、小銭家の墓は、まとめて堂の中にあります。それを墓地に移して、立派な墓石を立てたいと申されましてね」 「そんな話は、全く聞きませんでした」  むかしはこの寺の墓地に小銭家の墓があった。だが、徳次の父、つまり亨の祖父は墓には無関心な人で、寺に供養料というのを全く収めなかった。寺は布施と供養料で成り立っている。そのために、小銭家の墓地は潰され堂の中に、他の同じような墓と一緒に入れられていた。 「ご案内しましょう」  と言って住職は立ち上った。コンクリート造りの堂に入る。そこには、小さな墓が百数十個も並べられていた。それも石ではなく木箱である。それぞれの箱に家紋が描かれ、位牌が入っている。その中の一つが小銭家のものであった。徳次の遺骨と位牌はあとで住職が納めてくれるという。  簡単に経をあげ、合掌する。そして住職は墓地に案内した。 「ここです」  あちこちに狭い空地がある。その一つの前に立った。三坪足らず、十平方米あるかないかの土地である。 「これでどれくらいするのですか」 「土地だけで六十万、その上に石を配し、墓石を立てるとなると、ほぼ三百万円にはなりますな」 「三百万?」 「お父上は、それを予約なさっていかれたのですが」  亨はしきりに頷いていた。  供養料を納め、住職に礼を言って寺を出た。  掻き集めれば、三百万円の金はないことはなかった。だが、それでは生活に窮してしまう。徳次の生活にはそんな余裕はなかったはずである。 「金が入る予定でもあったのか」  と平栗が言った。 「いや、そんな話は全く聞いていない。墓のことは、むかしから気にしていたようだがな」 「おまえが知らない金が入る予定になっていた。それで親父さんは小銭家の立派な墓を立てる気になった、そうだろう」 「どういうたぐいの金だ」 「親父さんに、親しい友人はいなかったのか」 「さあな、特に聞いたことはないな。オヤジは停年で会社を辞めて、再就職をあちこちに頼みに回っていたようだったがな。何百万かの金が入ることになっていた。それで殺されたのかな」 「その可能性が出て来たな」  鹿児島本線の列車で博多駅にもどった。 「小銭、佐賀まで行ってみないか」 「佐賀?」 「西乃ときが、佐賀にもどっている。もう一度、会って話を聞いてみたい。何か聞けるかもしれん」 「しかし、事情聴取はしたんだろう、無駄じゃないのか」 「おれたちの仕事は、九十八パーセントは無駄なんだ。佐賀から、今日の上り『さくら』に乗ればいい」 「そうだな」  博多から『みどり』という長崎・佐世保行きの特急が出ている。鳥栖《とす》の次が佐賀で四十分ほどで行ける。今日の上り『さくら』までには、まだたっぷりと時間があった。  平栗が亨に付いて来た目的の一つは佐賀に行くことだったようだ。  駅弁を二個買って、一一時四五分発の『みどり9号』に乗り込んだ。もちろん、手帳には、西乃ときの佐賀の住所はひかえてある。 「小銭、動機らしいものが出て来たじゃないか」 「気になる金だ。何百万という金が入ってくるあてなどなかったはずだ」  駅弁とお茶で昼食をすませる。  徳次には、政府高官か一流商社の幹部のように横すべりできる会社はなかった。あるのは門番か守衛のような仕事だけだった。徳次は、少しでもいい会社に再就職しようと焦っていたところがあった。  亨は、悪い予感があって、少し沈んでいた。犯罪に絡む金ではなかったのか。 「小銭、気にしているのか」 「気にならないわけはないだろう。まさか、と思うが、オヤジは誰かを恐喝しようとして殺されたんじゃないだろうな」 「まだ、何もわかっちゃいないんだ。気にするなと言っても無理だろうがな。どんな人間でも魔が差《さ》すということはあるものだ」 「オヤジも、ただの男だったということか」  一二時二三分に佐賀駅に着いた。駅前のタクシーに乗り、運転手に手帳の住所を示した。  佐賀は、鍋島家三十五万七千石の城下町だった。城跡には、県庁や、県の官庁がある古い町である。  紺屋町で降り、聞くと西乃家はそれほど迷わずにわかった。玄関に立って案内を乞うと西乃とき自身が姿を見せた。田舎の六十六歳はたしかに老婆だが、足腰は達者なようだ。 「東京から、わざわざおいでなさったとですか」  ときは、驚いた顔で、とにかく、と言って家に上げ、座敷に通した。七、八十年は経っているかと思えるほどの古い家だが、骨組ががっしりしているせいか、落ち着いた趣きがあった。  ときは、冷えた麦茶を出した。咽《のど》が渇いていた亨は、それを一気に飲み干した。ときは、更に麦茶を注ぐ。  平栗は、亨を死んだ小銭徳次の息子と紹介した。 「あれ以後、何か思い出されたことはありませんか」 「みんな、あんときに申し上げただけですたい」 「ええ、ですが、小さなことでもいいんです」 「あの方は、病気じゃのうして、殺されなさったとですか。刑事さんがわざわざおいでになったとですから」 「その通りです。小銭さんのことではなく、他のことでも、例えば、前の席にいた赤座加津子さんに、何か変ったところは、ありませんでしたか」 「あの女のひとが、怪しかとですか」 「そういうわけではありませんが、みなさんに聞いて回っているんです」 「大変なお仕事なんですね」  蝉《せみ》がしきりに鳴いている。蝉の声以外には物音がしないほどに静かである。平栗は、この西乃ときのことも一応は調べていた。当然だが、小銭徳次とは何の繋《つな》がりもなかった。  老人は目ざとい。早く眠りについたせいか、大阪、京都あたりから寝台車のベッドの中で目をさましていた、と言った。この家でだったら起き出して、庭の掃除でもするのだが、列車の中では何もすることはないし、人の迷惑にもなるので、じっとベッドの中にいたという。  ときは、何か迷っているようだった。何も思いつかないという顔ではない。 「何でも、どんなことでもいいんです」 「こげんこと、言うてよかかどうかわからんとですけど、わたしは佐賀から『さくら』に乗りました」 「ええ」 「そんとき、女のひとが前の席に坐っておられたとです」 「赤座さんは、長崎から乗られたのですから」 「あたしは、ボケたといわれるのがいやで、言いきらんやったとです」 「まだまだ、お若いですよ」 「ずっと気にはなっとったとです」 「何がですか」 「佐賀で乗ったとき、前に坐っとった女の人と、あの小銭さんですか、様子がおかしかと騒ぎになったときの女の人とは、わたしには違う人のごと見えたとですよ」 「違う人?」  平栗は、亨と顔を見合わせた。 「つまり、八月三十一日、ベッドに寝る前に見た赤座さんと、翌朝九月一日に見た赤座さんとは、違う人だと言うんですか」 「はっきりと違う人とは言えんとです、同じ夜行列車に乗っておって、人が変るとは考えられんですたいね、ばってん、わたしにはそげん思えたとです。わたしの見間違いなら、その女の人に迷惑ば掛けることになりますもんね。そいけん、言い出しきらんやったとです。でも、こうして東京からわざわざおいでなさったとですもん、言わんではおられんごとなったとです」 「どこが違っていたんですか」 「どこがって……」  ときはしばらく黙った。 「そげん気のしたとです。黒ぶちの眼鏡ば掛けとらしたですもんね、着ているもんも同じごたったです。そいでも、何とのう、違う人のごたる気のしたとです」 「どういうことだろう」  と平栗は亨を見る。 「わからんな」 「何やったかね、どこか違うとたとですばってんね」 「赤座さんは、大阪か京都で寝台から出たんですか」 「ごそごそしよらしたとです。寝台の中で着換えとらすとじゃなかろうかと思うたと。そして、洗面所か便所に行かしたごたるとです」 「それは、どのあたりですか」 「京都に着く前だったと思いますけど」 「そして、寝台にもどって来たのは」 「京都ばすぎてからだったと思うたとです。でも、あの女の人の疑われたら、可哀想かですもんね」 「髪の形とか、年齢とか、何か癖とか」 「前の日のほうが、色の白うして、よか女子《おなご》のごたったとです」 「よかおなごですか」 「気品のごたるとのあるような」 「上品な美女?」 「朝やっけん、化粧は落したあとだから、違うた人に見えたとかもしれんとです」  前夜と朝は別人だった。これは何を意味するのか。意外な発見かもしれない。人間が入れ換ったとすれば、そこに大きな問題が生じる。入れ換る理由が当然あるはずだ。西乃ときに、別人だという自信がないのは、おそらく服装も髪型も眼鏡も同じだったからだろう。トイレか化粧室に行ったということは、荷物などには手を掛けなかった。赤座加津子は、ハンドバッグと二つの荷を持っていた。荷はそのままにして人間だけが入れ換ったのだ。     5  上り『さくら』は、一八時五七分に発車する。それまでにはまだ時間があった。二人は、駅前の食堂に入り、チャンポンを頼んだ。 「人が入れ違ったというのは、どういうことだろう」 「あのお婆さんの言っていることは、ほんとだろうな。ほんとだとすると作意がある。これでまた、他殺の線が一つ出て来たことになる」 「なぜ入れ換る必要があったんだ」 「親父さんのそばにいたら、親父さんとの関係がばれる。事故死でも一応は氏名・住所は聞かれるし、他殺となったときには、まず疑われ調べられるだろう。大阪か京都で降りてしまっても、容疑を受ける。それで代りの女を置いた」 「なぜ、そんな面倒なことを」 「完全犯罪を企《たくら》む者は、いろいろと考えるものだ」 「だけど、そうなると赤座加津子は共犯ということになりはしないか。車掌を止めて、様子がおかしい、と声を掛けたのは赤座だった。そうだろう」 「ああ、そうだ」 「共犯ならば、黙っていたほうがよかった。東京でみんなが列車を降りてしまってオヤジの死体が発見されたとなれば、赤座も、佐賀のお婆さんも、探し出すだけで警察は苦労しなければならなかった。第一に蝮毒死だけでは事件にならない。その車輛を探して蝮が出て来なかったとしてもだ。赤座が騒がなければ、あるいは完全犯罪になった可能性が強い」 「赤座は共犯ではない?」 「何も聞かされないで、京都から『さくら』に乗り込んだ、そう考えたほうがよさそうだな」 「そうなると、赤座に似た女が京都で降りたことになる。赤座加津子が何か握っているな」  二人は食堂を出ると、駅に向かった。乗車券は降りたときに買ってある。駅の改札口を入りホームに立った。亨も平栗も、それぞれに考えていた。もっとも考えている内容は異る。  亨は、死んだ徳次を思い、平栗は事件を考えていた。  寝台特急『さくら』がホームに入ってくる。一分間停車である。二人の席は四号車の7下と8下である。向い合って坐った。入口のところにドアでもあれば、そのまま密室になってしまう作りである。隣りの5番と6番の席、あるいは9番と10番の席は、全く別の空間になってしまう。乗ったとたんに座席に横になっている人もいるし、カーテンを引いている乗客もいた。 「こうして乗ってみると、寝台車というのは妙なものだな」  たしかに普通の列車とは異る。佐賀を出てしばらくすると、車掌が車内改札に来た。 「博多とか、その先から乗って来た人の車内改札もやるんですか」  平栗が聞いた。 「やることもありますが、すでにお休みになっているケースもありますので、むりにするわけではありません」 「やらないこともあるわけですね」 「そうです」 「夜が明けてからはどうですか、大阪、京都、名古屋、あるいは東京までベッドに寝たままというお客もいるんではないですか」 「たいていは名古屋あたりで起きられますが、東京まで眠ったままというお客さんもおいでになります」 「そういうときには」 「変ったことがなければそのままです。もちろん着いてからお起ししますがね」 「じゃ、途中で死んでいたとしても、わからないわけですね」  車掌は顔色を変えた。平栗は、ポケットの警察手帳をちらりと見せた。 「ああ、警察の方ですか」 「九月一日の死亡事件でしてね」 「聞いています。車輛に蝮《まむし》がいたとか」  まだ殺人事件とは発表していない。 「蝮が車内に入り込むと考えられますか」 「そんなことはないはずです。誰かが持ち込まない限りは、殺人事件ですか」 「いや、いまその可能性をさぐっているところです」  車掌は一礼して、次の席に移った。 「まだ、寝るのは早いな、食堂車に行くか」  誘ったのは亨だった。涼子からもらった金があった。平栗にもビールくらいは飲ましてやらなければ、と思ったのだ。  五号車の食堂車に移った。席は半分ほどは空いていた。二人は向い合って座り、ビールをたのむ。 「これで事件になるのか」 「帰って係長に相談してみなければわからんな。まだ、単に蝮毒死の可能性もあると言い出すだろう。はっきりするまでは、おれともう一人くらいで専従捜査ということになるかもしれんな」 「おまえは、オヤジは殺されたと思っているんだろう」 「もちろんだ、そうでなければ、九州までおまえについては来ない。だが、おれ一人では決められん。おれは大きな組織の歯車の一つに過ぎんのでね」  亨は、ベルトに差していた扇子を抜き、それを拡げてあおぐ。いつも団扇を持ち歩いていたので、暑くなくてもあおぐ習慣みたいなものがついている。それを見ていた平栗が、手をのばして取ると、書かれた文字を眺めた。   紳綺雌北枯   祥峡鴉頃胡   …………  最後に�徳次�とある。 「これは、親父さんの筆跡か」 「そうだと思うが、どうかしたか」 「何も書いてない扇子を売っているのかな」 「白扇というんだろう。売っているんじゃないかな、色紙《しきし》を売っているような店に」 「親父さんに、書《しよ》の趣味はあったのか」 「夏になると、たいてい扇子は持ち歩いていたよ、どんなものか、あまり見たことはないけど」 「もしかしたら、この文字、ダイイングメッセージのたぐいかもしれないな」 「なに」  亨は、扇子を奪い返して文字を見た。 「紳綺雌北枯《しんきしほくこ》、祥峡鴉頃胡《しようきようがけいこ》、狄仮悔《てきかかい》、移塀楠《いへいなん》、礫投転刹《れきとうてんさつ》」  と文字を声に出して読んでみた。 「よく読めたな、おれには�頃�という字が何と読むのかわからなかった」 「頃は、傾斜《けいしや》のケイだよ」 「しかし、しんきしほくこ、しょうきょうがけいこ、てきかかい、いへいなん、れきとうてんさつ、いったい何だい」 「漢詩だと思ったが」 「…………」 「おれも、オヤジが死んでから、これをぼんやり眺めていたが、さっぱりわからん、意味がありそうにも思えるし、いつころ書いたんだろうな、あまりうまい字とも思えないが」 「小銭、親父さんは、この扇子に文字を書いて、何か伝えたかったのかもしれんぞ。ちょっと貸してくれ」  平栗は、扇子をテーブルの上に置くと、それを手帳に写しはじめた。 「しんきしほくこ、しょうきょうがけいこ、てきかかい、いへいなん、れきとうてんさつ、こうして読んでみると、いかにも漢詩らしいじゃないか」 「しかし、オヤジのダイイングメッセージだとすれば、これに意味があるはずだろう。それに、おれに残したものなら、おれにわからなければならない」  ビール四本が空になっていた。もっとも中ビンである。二人はウイスキーの水割りに変えた。  交代で扇子を眺める。 「科研に頼んで調べてもらうか」 「暗号解読班というのがあるのか」 「よく知らんがあるようだな」 「オヤジが、こんな面倒なものを残すとは思えんけどな」 「暗号なんてものは、解けてみれば、マジックのネタみたいなもので、案外簡単なものかもしれんけどな。たしか、親父さんは、若いころ海軍にいたと言っていたな。もしかしたら、中野学校みたいなところを出たんじゃないか、防諜班とか」 「主計兵だったと言っていたよ、事務屋だろう。海軍の中でも一番勇ましくない兵だったようだ」 「戦友なんていたんじゃないか」 「帰ったら、交友関係を調べてみる。オヤジが殺されたんじゃ、息子のおれが、引っ込んでいるわけにはいかないからな」 「その通りだ。だが、おれに連絡とることを忘れるなよ、おまえが動いていることを敵が知れば、消しにかかるかもしれんからな」 「犯人は女じゃなかったのか、お婆さんが言ってたじゃないか、上品な美人だって、会ってみたいものだ」 「女がすべて心優しいとは限らない。おれは男より女のほうが惨酷になれると思っている。油断したらバサッと斬られるぞ」  徳次に似て、亨もあまり女に縁のあるほうではなかった。だから、女といえば何か憧れに似た気持ちを抱く。 「どんな女だろうな。赤座加津子は女としては背は高いほうだった。ハイヒールをはいてはいたが、一六○センチ以上はあったな。背丈が違っては身代りは勤まらない、とすれば、その美女も背が高いことになる」  と平栗は、目を遠いものにする。しかし、そんな美人にどうして徳次が殺されなければならなかったのか。赤座は三十歳、美女も似たような年齢だろう。徳次は女には縁のない男だった。女といえば、亨の母親だけだろう。それとも亨が全く知らない裏の一面を持っていたとでもいうのか。亨には考えられないことだった。  亨も平栗も適当に酔いが回り、食堂車を出た。座席にもどって、座席をベッドにする、と言っても、クッションの上に細長いシーツを敷くだけのことだ。備えつけの浴衣を着て、脱いだものをハンガーにかける。横になってカーテンを引き回す。毛布が体に重い。体が汗臭かった。  列車は、ゴトンゴトンと一定のリズムを持って震動し、それが体に伝わってくる。気になる響きでもあり、快い揺れにも思える。  徳次は、博多から乗り込み、座席には坐らず、すぐに上のベッドに上って横になった。下段に赤座加津子がいたからである。赤座の向いの西乃ときは、早くからカーテンを引いて寝ていた。まだ眠くなくても赤座の隣りに坐る気にはなれなかったのだろう。もちろんベッドにしなければ、座席に坐る権利はあるのだ。  ベッドに横になっても、すぐに眠れない。徳次はここ十数年、精神安定剤を服用していた。それをのまないと眠れないのだ。亨は徳次が寝る前に、よく白い錠剤を四、五粒のんでいたのを憶えている。  亨は、カーテンを開け、 「おい、平栗」  と声をかけた。 「なんだ、小銭」  と平栗は答え、カーテンを開けた。 「解剖した医者は、オヤジが睡眠薬を常用していたか、と聞いたな」 「ああ、そうだったな」 「睡眠薬と精神安定剤は違うものだろう」 「それがどうかしたのか」 「オヤジがのんでいたのは精神安定剤だった。睡眠薬ではない」 「なるほど、親父さんの体から出たのは、睡眠薬だと言っていたな。もう一度医務院に行って確かめてみなければならんな」 「たのむ」  と言ってカーテンを再び引いた。  徳次の体内から検出されたのが、睡眠薬だったら、どういうことになるのか、その状況を考えてみた。  犯人は、蝮毒を注入して殺すのが目的だった。体の中で痛感に最も鈍感な部分は尻である。蝮に咬まれたように見せるためには、注射針を二度刺さなければならない。針を刺せばチクリと痛みが走る。いい加減に二度刺せばいいというわけではない。並べて、できるだけ蝮の二本の牙に似せて刺さなければならない。となると、犯人はまず、徳次を先に眠らせなければならない。  棘《とげ》を刺したり、あるいは蜂に刺されたりしたとき、人は本能的に手で払うものだと思う。眠っていなければ、声くらいあげるかもしれない。犯人は徳次が精神安定剤を常用していることは知らなかったはずだ。すると、蝮毒を注入する前に、睡眠薬をのませなければならない。のませるのはむつかしいとなると、やはり注射だろう。即効性の睡眠薬を注入する。そして徳次が眠ったところで、ゆっくり蝮毒を注入する。それに違いない。  睡眠薬を注入されていたから、車掌が苦しんでいる徳次をゆさぶり起そうとしたが起きなかった。そして眠ったままの状態で死んでしまった。  蝮毒が体内に入って反応を起こし、死ぬまでの間の症状は医師に聞いた。眠っていなければ、徳次は苦しさのあまり、自分から車掌のところへ行ったか、途中で下車していたはずである。彼にはそれができなかった。  亨の中に、何か怒りみたいなものが少しずつ湧いてくる。徳次は苦しみながらも、目を醒ますことなく死んでいった。  犯人は、なぜ蝮毒みたいな面倒なものを使ったのか、当然、完全犯罪を狙ってであろう。その殺し方が暗い。陰湿だ。もっとも陽気な殺し方というのは、あまりないのだろうが。  犯人が、注射針を徳次の体に刺す光景を思い描いてみる。ベッドとベッドの間の通路に立つ。そして、カーテンをめくれば、そこに徳次の体がある。密室のような感じであって、いかにも無防備の状態だ。眠っている乗客に害を加えようと思えば誰だってできるのだ。そのベッドの位置さえわかっていれば。そばにいる赤座加津子や西乃ときではなくてもできる。  だが、犯人は徳次がそのベッドに寝ているということを知っている者でなくてはならない。無差別に殺せばいいということではなかったはずだからである。  徳次は往復の『さくら』の乗車券を持っていた。犯人は博多駅から徳次を尾行して来たわけではないだろう。あるいは犯人が往復の乗車券を買い与えた、と考えるほうが自然でもある。同時に犯人は徳次のベッドの下席の券も買っていなければならない。  赤座加津子と交代した女が犯人とするならば。赤座は長崎から東京までの乗車券を持っていた。これは刑事が質問しているし、車掌も車内改札をやっている。徳次は博多から東京までの乗車券だった。犯人は、二人分の乗車券を同時に買った。東京・新宿の駅で乗車券は売られている。その辺から犯人は割り出せないものなのか。  上品な美女は長崎から『さくら』に乗った。そして、大阪か京都、おそらく京都だろうが、そこで赤座加津子と入れ換った。赤座は京都で入場券だけを買って『さくら』に乗って来た。降りる女と入場券と乗車券を交換するだけでいいわけだ。女は入場券で駅の改札口を出ていく。  その女が、どこで睡眠薬と蝮毒を注入したかは、徳次の死亡推定時刻から逆算すれば、出てくるはずである。おそらく大阪あたりだろう。その女は、長崎から乗って、博多で徳次が乗り込んでくるのを待ち、大阪あたりで徳次に蝮毒を注入するために、じっと待っていたことになる。大阪を『さくら』が通るのは夜明け前、大阪着が午前四時二九分、発が四時三一分、乗客のほとんどがまだ目をさます前である。  殺人者がベッドでじっと息をひそめて待っている。しかもその殺人者は上品な美女、人を殺すのだから、彼女は眠らなかっただろう。人を殺すというのに眠れるわけはない。あるいはベッドに黙って坐っていたのか。その女の様子を想像してみると慄然となってくる。カーテンを引き回した暗いベッドの中でである。  亨は、女の呻き声を聞いた気がして、闇の中で目を開いた。人の動く気配がしている。太い男の声と細い女の声がする。一体何なのだ。背もたれのむこうの席にどんな人が乗っているのかは知らない。顔も見ていないのだ。  女が呻いた。そして声をあげる。もちろん忍んだ声である。男と女が隣りのベッドで絡み合っているのだ。ベッドの広さを思った。重り合えば充分な広さがあるし、坐っても頭が天井につっかえることもない。なるほど、寝台車というのは、こういうこともできるのだ、と思ってみる。自分の家やホテルのベッドで抱き合うのよりも、寝台車で抱き合ったほうが、あるいは刺激があり、新鮮なのかもしれない。女の欷《すす》り泣くような声、ベッドが弾む。亨とは三十センチも離れていないところで、男と女が楽しんでいる。もちろん、それを止めさせようと思わない。人に迷惑をかけなければ、どこで交わろうと勝手だ。 「おれは迷惑しているのかな」  と思い苦笑した。  三章 入れ換った女     1  新宿二丁目、伊勢丹デパートの斜め向いに新宿文化ビルがある。以前は映画館だったところ、もっともいまも六階に映画館はある。このビルの八階に、会員制のクラブ『エスカイヤー』がある。  神崎雅比古《こうざきまさひこ》と見城美樹《けんじようみき》は、窓ぎわの席に向い合って坐り、ワインをのんでいた。この階はクラブだけで、広い落ちついたフロアを持っている。席の間を二十数人のプロポーションのいいバニーガールたちが歩き回り、客にサービスをする。このクラブは日本全国の主要都市にチェーン店を持っている。  雅比古も美樹もこのクラブの会員である。フロアの中央では、グランドピアノを弾き、女性歌手が歌っていた。近ごろでは、カラオケバーが少しずつ減少していき、この手の店がふえて来ているようだ。  美樹はカラオケバーというのが嫌いである。歌は騒音でしかない。友人や知人とゆっくりお酒をのみ、お喋りするのには適していないし、素人がプロ歌手みたいな歌い方をする歌声には寒気がする。それにボリウムをいっぱいに上げているので、会話は通らない。お喋りしていて疲れる。もちろんそういう店には行かなければいいのだが、ムードのあるわりに高級な店でもカラオケは置いてあり、ストレスのたまった人たちが歌うのだ。当人は、上手なつもりで恍惚として歌っている。歌い終ると、ホステスから他の客まで拍手するものだから、当人はみんなが自分の歌を聴いていてくれているのだと錯覚する。そして、もう一曲となるのだ。  美樹は、いい店だな、と思いながらカラオケのために行かなくなった店は多い。フロアの席には空きのないくらい客が入っていた。こういう店が流行するのはけっこうなことだと思う。プロが歌うのならまだ聴ける。  モアを咥《くわ》えると、雅比古が腕をのばして来て、ライターで火をつけてくれる。 「どうしたの、雅比古さん、元気ないみたいだけど」  ああ、と曖昧《あいまい》に返事してワイングラスを口に運ぶ。そしてエスカルゴを殻から出して、口に入れる。 「あのことを気にしているの」 「気になって当然だよ。美樹があんなことするとは思ってもいなかった」 「小銭徳次のことね」 「あれくらいのことで殺すことはなかった。金のことならたいていのことはできるはずだ。それにあの人は、それほど悪い人ではなかった。金を渡すのは一度だけですんだかもしれないのに」  小銭徳次は、交通事故を目撃し、それを金にしようと思い、雅比古に電話して来たが、金を取るのが気がひけたのか、電話を切った。  だが、考え直して、また電話して来たのだ。それには、雅比古の代りに美樹が応待した。  そして、彼は九月二日の新聞に、小銭徳次が『さくら』の列車内で死んだという小さな記事をみつけたのである。 「雅比古さん、何か勘違いしているわ、あれはあたしじゃないのよ」 「違う?」 「いくら雅比古さんのためだって、あたしは人殺しはしないわ」 「だけど、あんなに都合よく死んでくれるものかな」  たしかに、記事には、寝台車『さくら』の中で急病死とあった。 「あたしはあんなことしないわ。まず、あの男と話合ってみるわよ」 「しかし、きみは八月の三十日と三十一日は東京にいなかった。長崎に行ったんだろう」 「大丈夫よ、あたしじゃないって」 「ぼくのために心配してくれるのは有難いけど、きみに人殺しまではさせられない」 「あたしも、そんなに単純じゃないわ。だけど、あの男が死んでくれて助かったわね」 「あまりタイミングがよすぎるよ」  美樹は、笑った。口を開いては下品になる。それで口を手で覆った。かすかにブラウスに包み込まれた胸の膨みが上下に揺れた。  一本のワインボトルが空になると、ウイスキーの水割りに換えた。ウイスキーのボトルは常にキープしてある。バニーガールが床のジュータンに膝をついて水割りを作る。胸から白い乳房が半分ほどもこぼれていた。  バニーたちはみんな背が高く、プロポーションもいい。もちろん身長は一六〇センチ以上だろう。美樹も身長とプロポーションではバニーたちには負けない。 「新聞には病気とあったけど、あれは信じられないね。病死にみせかけて殺したんだ。警察はすでに動いているはずだ」 「心配しないで、あたしじゃないのよ。信じて」 「ぼくだって信じたいよ」 「相変らず、気が小さいのね。そんな雅比古さん嫌いじゃないけど、もしもよ、あたしが犯人なら、雅比古さんと一緒になれないじゃない。日本の警察は優秀だから、必ず犯人を探し出して捕えるわ。あたしは刑務所なんかに行きたくない」  雅比古は、小銭徳次の死を知って、美樹が殺《や》ったものだと思った。その思いからはなかなか抜けられない。あのどしゃ降りの雨の中、倒れたお婆さんを病院に運んでいればよかったのかもしれない。轢《ひ》いたわけでも撥《は》ねたわけでもない。車はお婆さんに触れなかったのだ。だが警察に訊問されれば、ただ通りかかっただけではすまなくなる。まして目撃者までいたのだから。  彼は警察の訊問には弱い、粘り強く抵抗することができず、つい本当のことを喋ってしまう。そうなると、雅比古の母親であり、公民党の委員長である神崎八重の立場は困ったものになるのだ。公民党そのものが世間の批判を受けることになる。それを思って雅比古は現場を逃げ去った。美樹も、雅比古が強い男なら、老婆を病院に運ぶというのを止めなかっただろう。  美樹は、自分は殺《や》っていないという。信じてという。だが雅比古には信じられないのだ。恐喝者がこんなにうまく死んでくれるわけはない。世の中がそんなに自分に都合よくいくなどとは考えられない。それがいまの雅比古の悩みの種になっていた。 「雅比古さんは、あたしを信じていればいいのよ。あなたは何もしなかったんだから」 「そうは言ってもね、夢にまで見るんだよ」 「あたしが付いているのよ、もう少し気持ちを大きく持って」  そばに女の影が立った。 「いらっしゃいませ」  と腰を折る。このクラブのママである。バニーガールと変らない背丈があり、年齢も美樹より一つか二つ上という感じ、プロポーションがよくて、なかなかの美人だが、薄い体つきをしている。  彼女は、雅比古の隣りに坐った。 「見城さんは、いつもおきれいね」 「ママだって、おきれいよ、このところ、少しお化粧が変ったのかしら」  女同士のお喋りがはじまる。雅比古は水割りのグラスを手にして、わずかに眉を寄せた。  彼には女というのがわからない。自分のためにやってくれたのはうれしいが、人を殺しておいて、それを顔にはわずかにも出さないで笑っている。 「近ごろ、西郡《にしごり》さんは、おみえになりませんのね」  西郡亮子が美樹の大学時代からの親友であることは、雅比古も知っていた。二人でこのクラブにもよく呑みに来ているようだ。  ママは、瞼から頬骨へかけて紅をつけたような化粧をしている。アイシャドウが、シャドウではなくなっている。むしろ逆に浮き立たせるような化粧法で、近ごろはこんな化粧が流行している。たしかにこの化粧は表情が明るくなるし、色っぽくもなる。  しばらくお喋りして、ママは、ごゆっくりと言って他の席に移っていった。     2  東京・北区東十条四丁目××番地、赤座加津子の住所である。小銭亨《こぜにきよう》は、東北線電車を東十条駅で降りた。東北線に平行して、上越新幹線が走っている。  亨は、東京地図を手にしていた。地図で見ると赤座の住居は、十条小学校から少し歩いたあたりである。ところがその住所に赤座という家はない。警視庁捜査一課刑事、平栗良三《へぐりりようぞう》に聞いた住所である。間違いがあるわけはない。  角の煙草屋で、セブンスターを買って聞くと、最近できたアパートに住んでいる人ではないかという。探してみると該当番地に『アパートメント青木』があった。二階建てのわりに大きな新築のアパートだった。  玄関を入ったところに、ネームプレートの付いた郵便受けの箱が並んでいる。それを見ていくと、二一五号室に『赤座|誠史《たかふみ》』という名前があった。赤座加津子の夫だろう。赤座という姓はそうざらにはない。  二階へ上り、二一五号室の前に立った。ドアをノックしたが返事がない、二度叩くと部屋の中に人の動く気配がした。 「どなた」  と女の声はしたが、ドアは開かない。 「小銭亨といいます」 「何かご用なの」 「九月一日、寝台特急『さくら』で殺された小銭徳次の息子です。少しお話をお聞きしたいんですが」  わざと�殺された�と言った。息をのむ気配があった。ガチャガチャと鎖の外れる音がして、ドアが内側に開いた。そこにわりに背の高い女が立っていた。一六二、三センチはあるだろう。三十女の肉感的なプロポーションで、花柄のワンピースは、女の体の線をむき出しにしている。肌の色はいくらか黒い。 「赤座加津子さんですか」 「ええ、そうだけど」  ぶっきら棒に言う。 「小銭亨です」  亨は玄関に入った。狭いくつ脱ぎ場は片付いている。子供はいないようだ。子供がいる家なら一目でそれとわかる。  荒れてどこかギスギスした女で、顔色もよくない。三十歳と聞いているが、老けてやつれて見えた。夫婦仲がよければ、三十になった妻はこんな顔はしていないだろう。 「あなた、殺された、と言ったわね」 「ええ、父徳次は殺されたんです」  加津子の顔色の変化を見た。亨は加津子の反応を見るために訪れたのである。 「でも、あたしは病気だと聞いたわ。新聞の記事にも病死と書いてあったと思うけど」 「殺されたんです。ですからぼくはこうして赤座さんに話を聞きに来ました」 「殺人事件なら、警察が動くはずでしょう。あたしのところには、まだ刑事は来ていないわ」 「もう、動いていますよ」 「ほんとに?」  彼女は目を宙に浮かせた。殺人事件として捜査本部ができているのなら、まず刑事は彼女のところに聞き込みに来なければならない。それが来ていないというのはどういうことなのだろうか、そんな顔色の変化だった。  たしかに警察では捜査本部は設置していない。いまは事故死と他殺の両面で動いている。まだ他殺とするには自信がないのだ。事故死の線が消えたとき捜査本部はできるはずだ。 「ここで話すわけにもいかないわね。狭いところだけど上ってちょうだい。ドアは閉めておいてね」  加津子はそう言って背を向けた。亨はドアを閉めて靴を脱いだ。  2DKにバストイレ付きという部屋のようだ。子供のいない夫婦なら狭いということはない。部屋はわりに片付いていた。一方は居間を兼ねた寝室だろう。ダイニングにテーブルがあり、その椅子に坐るようにうながしておいて、加津子はお茶を淹《い》れはじめた。彼女は亨を年下だと思い込んでいる。だからこういう喋り方になる。ほんとは亨のほうが一歳年上なのだが、がっしりした体つきをしていても、まだ社会の波に揉まれていないせいか、二十五、六に見られることが多い。  亨は、加津子の背中から腰のあたりを見ていた。女っぽい体つきだが、人妻の色香というのが感じられない。 「ほんとに殺されたの」  嘘をついている様子ではない。どういうことなのかと考えてみる。彼女は京都で入れ換った女とは共犯ではなかったのか。何も聞かされずに、京都から『さくら』に乗り込むように頼まれただけなのか。もちろん、佐賀の西乃ときの話を事実だと考えてみてのことである。 「蝮毒を体に注入されて」 「マムシって、あの毒蛇の」 「そうです。解剖の結果わかったんです」 「でも、新聞にはそんなことは何も」  彼女は、気にして新聞だけは見ていたようだ。 「まだ発表はされていません。内密に捜査をはじめているんです。毒が毒だけに」  加津子の顔には、期待した変化は起らなかった。蝮毒は、彼女には意外だったようだ。 「マムシの毒で亡くなったの、そう、でもヘンな殺し方をするものね。あたしは、ただその人の下で寝ていたというだけのことよ。何も知らないわ」 「何か気がついたことはありませんか、蝮毒を父の尻のあたりに注射器で注入したらしいんです。犯人はあなたのベッドのそばに立ったことになります。何か気配も感じなかったんですか」 「そのとき、あたしは眠っていたみたいね、何も憶えてないもの」 「でも、赤座さんは、通りかかった車掌に、父の様子がおかしいとおっしゃった」 「ええ、ひどく苦しんでいるみたいだったから、病気だろうと思って」  彼女はそう言いながら、そっぽを向いた。何か考えているのだろう。京都から乗るように頼んだ女のことか。 「ほんとに殺人なの」 「間違いありません。あの寝台車に毒蛇がいるわけはありませんから」 「そう、そうだったの。知らなかったわ、そんなことだったの。おかしいとは思ったけど」 「おかしいって、何のことですか」 「いいえ、何でもないの」 「赤座さん、長崎へは」 「観光旅行よ、むかしから一度行ってみたいと思っていたし」 「旅行はお好きなんですか」 「好きだけど、なかなか出かけられなくて」 「お一人だったんですね」 「ええ、赤座とケンカして、むしゃくしゃしていたものだから、とび出したの」 「急に思いつかれて」 「いいえ、そうじゃないわ。一ヵ月ほど前から計画していたの」  刑事ならここで追いつめるところだろう。加津子の言うことはどこかちぐはぐだ。 「キップは、長崎—東京間の『さくら』の往復ですね」 「ええ、そうだけど」 「キップは、いつどこで買われたんですか」  言ってしまって、しまった、と思った。こういう聞き方はすべきではなかった。やはり加津子の顔色が変った。 「あなた、あたしを疑ぐっているの」 「いや、そういうわけではありませんが」 「あたしは、ただ長崎に旅行して来ただけよ。あなたのお父さんなんて知らないわ、全く関係ない人をどうして殺さなければならないの。席が上下になったのは偶然でしょう」 「すみません、父が死んで、ぼく、どこかおかしくなっているんです。赤座さんを疑ぐっているんじゃないんです。ぼく、父のために犯人を探したくて」 「その気持ち、わからなくはないけど、そんなこと警察にまかせておけばいいんじゃないの」 「でも、ぼくは、母が五年前に死んで、父と二人暮しだったんです。それで」  加津子はどうにか顔色をもとにもどした。 「父は小さな会社のサラリーマンでしてね、うだつの上らない生き方でした。停年になっても再就職もできず、死んでしまったのです。オヤジの一生は何だったんだろうと、可哀想になりましてね」 「そう、じゃ、一人ぼっちなの」 「すでに結婚している妹がいますけど」  加津子は肩を落した。女はこういう話に弱い、という計算があって喋っていた。女には情に訴えるほうが効果的である。 「人の一生ってそんなものじゃないかしら。たいしていいことなくて死んでいくのよ。あたしだって同じなのよ。三十歳になって、いい思い出なんてこともなかったし、このまま齢とっていくのかしら、と思って焦っちゃうことがあるのよ。いいことを期待できるわけもないし、焦ってみても、どうなるわけでもないわ」 「でも、赤座さんはまだ若いじゃないですか、ご主人だって出世されるかもしれないし」 「赤座は駄目よ」  投げ捨てるように言った。  亭主の話が出たついでに、ご主人はどういう人? どんな会社に? 子供は作らないんですか、と聞く。雑談の中から何かを掴みたかったけど、たいした収穫はなかった。  長崎から『さくら』に乗って来た女と、どうして京都で入れ換ったのか、ということは聞けない。また加津子を怒らせることになる。彼女は、長崎から乗って来た、で押し通そうとするに違いない。そのことを追及するのなら日を改めてということになりそうだ。もっとも、刑事だったら、その点を強く追及するのに違いないのだが。だが、たとえ刑事が迫っても、彼女は喋らないだろう。彼女は容疑者というわけではないのだから。  亨は出されたお茶に口をつけた。 「コーヒーのほうがよかったかしら、うちにはインスタントしかないのよ」 「いいんです。どうぞ、おかまいなく」  加津子はコーヒーを淹《い》れはじめた。醜い女というわけでもない。背丈はあるし、女としての部分も充分に熟れているようだし、これで表情が明るければ、けっこう魅力ある女だろう。 「小銭さん、恋人はいるの、ガールフレンドくらいはいるわね」 「ええ、まあ」  彼女は話題を変えて来た。コーヒーを出して向いに坐る。胸が丸く突き出ていた。 「逞しい体しているのね、スポーツでもやっているの」 「ええ、高校のころから空手を少し」 「道理で、肩幅が広いと思ったわ」  一七五センチ、背が高いというのではない。ふつうだが、骨太の体格だった。  加津子の目の色が奇妙に変っていた。仕草にも三十女の色気みたいなものが出てくる。体の芯が抜けたみたいに、柔かい体つきになっていた。そこで彼女は、亭主の愚痴をこぼしはじめる。給料は半分しか渡さず、酒と賭けごと、特に競輪が好きなようだ。酒の中には女も含まれているらしい。それでよく言い争いになるとか。もっとも給料はたいした額ではないはずだ。その半分を使ったとしてもそれほど遊べるというわけではないだろう。 「亭主が頼りにならないと、女の目って外に向いちゃうのね。でも、あたしはいまはやりの不倫なんてできない。不倫する人妻の気持ちってよくわかるの。亭主が勝手なことしているのに、妻だけ家の中でじっと耐えているのって、たまらないものね」 「そういうものですか」  ムードがおかしな方向に動いていた。危険なムードである。亨はそれに気付いて、 「それでは」  と椅子から腰を浮かした。とたんに加津子の目から光りが失せていった。もう少しいいんじゃないのとか、引き止める言葉は、彼女の口からは出なかった。  そう、と乾いた声で言って、彼女は玄関まで見送りに出て来た。  亨は、アパートを出て、駅に向かって歩き出しながら振りむいた。あの危険なムードは濃くなりつつあった。あと三十分、椅子に坐っていたら、男と女、雄と雌になっていたかもしれない。手をかければ、加津子は傾いて来て崩れたのに違いない。亨だって男である、女の気持ちの動きがわからないわけはない。女がその気になり、男が迎える気持ちになれば、その行為はごく自然に進行するものだ。加津子は、そのムードを寸断されて、白けた気持ちになった。  彼女とそういう関係になれば、何もかも喋ってくれたのだろうか、と思い、あわてて首を振った。     3  亨は、新宿の『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』にいた。この事務所を、平栗《へぐり》刑事との連絡場所に使わせてもらっている。津知田涼子《つちだりようこ》がすすめてくれたことでもあり、涼子から畔倉弁護士に了解も取ってあった。涼子には、調査費ももらっているし、博多に行った報告もしなければならない。スポンサーでもあるのだから。  部屋は事務所と調査室の二つに分れていて、調査室には机が二個あるだけの殺風景なものだった。事務所のほうはわりに広く、客を迎えるための応接セットもある。だが、畔倉信一郎も涼子も外出していて、女子事務員が一人いるだけだった。  椅子に坐って煙草に火をつける。  一昨日は、赤座加津子を訪れ、昨日は父徳次の知り合い三人の家を回って来た。徳次がメモしていた手帳に、三人の名前が記されていた。その三人の住所、連絡先は別のアドレス帳にあった。  この手帳は遺品の一つである。もちろん隅から隅まで見たが、事件の手がかりになるものは、亨が見た限りでは、何も書かれてはいなかった。  徳次が最後に会ったのは、野沢泰介という人で、彼は四十二年前の戦友だったようだ。徳次は野沢に職をたのみに行ったのだろう。世田谷区成城に住んでいる野沢の家に行ったのは、八月二十四日だった。その日の欄に、�豪雨�と記入してあった。亨には記憶がない。局地的豪雨だったようだ。  亨は、野沢の家を訪ねた。彼は夏バテでこのところ会社を休んでいるとかで自宅にいた。徳次の死をまだ知らずに驚いていた。 「小銭が死んだとは知らなかった、どうして知らせてくれなかったんだね」  徳次の葬式は、人も呼ばず、ひっそりとすました。殺されたとあってはなおさらである。 「父は、何か言っていませんでしたか」 「ちょっと気になることを言っていたな」  野沢泰介は、徳次より二つ年上で、海軍主計学校が一緒だったという。 「いま思えば、何かの前兆だったのかね、男は六十を過ぎれば、いつ死んでもおかしくない、そう思えるような齢になったってね。わたしも同じ気持ちでね。あるいはあと二十年生きるかもしれない。だが、明日、あるいは来年死ぬかもしれない、そういう気持ちになってくるものだ。死生観というのかな、そういうものが四十代、五十代のはじめころとは違ってくる。だが、身辺の整理というのはなかなかできない。いや、それはいい、誰でもこの齢まで生きればそういう考えになってくる。だが、気になるのは、そういう話題に終始したことだ。小銭は言っていた。せめて親父のために立派な墓を立ててやりたいって」 「墓ですか」 「きみのお母さんも亡くなっていることだし、両親、きみの祖父母だが、ちゃんとした墓がないんだ、と言っていた。亨くんは聞かなかったのかね」 「聞きませんでした。今度、福岡に父の骨を納めに行き、寺の住職にはじめて、その話を聞きました」  やっぱり、徳次は墓にこだわっていたのだ。 「わたしも、小銭に職の世話をしてやれなかった。それだけの力がなくてね、わたし自身がむかしの会社の嘱託《しよくたく》でね」  再就職の口がない、と言いながら、徳次は健康だった。守衛でも門番でもよかったはずである。 「あの日は、小銭が帰ったあとで、凄い雨が降ってね」  野沢は、目をしばたいて、眼鏡を外した。  亨は、電話のベルで、ふと我に還った。受話器を把《と》る。 「おお、いたか、平栗だ、妙なことがわかった」  その妙なことは、あと回しにして、亨は赤座加津子の反応を喋った。 「それは金だな、加津子は誰からか金をもらっている。金で頼まれて、京都から『さくら』に乗ったんだ。何も知らされてはいなかったのだろう」 「加津子は言っていた。亭主の誠史《たかふみ》は、女と賭けごとが好きだと。競輪に行くらしい」 「それで借金したか、会社の金に手をつけたかだろうな。赤座誠史の周辺を聞き込んでみると、最近になって借金の穴埋めはしたらしいんだな。二、三百万はあったようだ」 「まだ、他殺とは決まらないのか」 「事件になれば、丸の内署と合同捜査になるのだろうが、まだ事故死の線が消えていないんだ。わかっていて上のほうでは迷っている」 「加津子が喋れば、事故死の線は消えるんだろうが、参考人として呼ぶだけの材料もないだろうし」 「そういうことだ。はじめは病死ということで始末されそうになったんだから、警視庁としても捜査本部を置くにはためらいがある」  前例のない事件には、警察組織も弱い。もっとも、平栗ら数人の刑事は動いていた。犯人も、警察の弱点を狙ったのだろう。 「彼女に尾行はついているのか」 「いや、そこまでの人数はいない」  張り込み、尾行というのは、多くの人数を要するらしい。 「おれがもう一度、加津子に会ってみよう」 「会ってどうするんだ」 「喋りはしないだろうが、もう少し突ついてみる。そうすると加津子のほうから、犯人に連絡がいくだろう」 「脅すのか」 「刺激してみる。おれがやる分にはかまわんだろう。何か反応があるかもしれない」 「京都駅で降りたと思える女、調べてみたがわからん。直接行って聞き込んでみないと出て来んだろう」  それじゃまた、と言って電話を切った。事務所を出ると新宿駅に向かう。  赤座加津子は、徳次が殺されたことを知らなかった。ただ金をもらって、京都から『さくら』に乗っただけだった。すると、徳次が殺されたと知った加津子はどうするだろう、と考えてみたのだ。彼女は依頼人に連絡をとる。そして、大金を要求するのではないのか。いまのところ、依頼した女のことを知っているのは加津子だけだ。彼女が一言喋れば犯人は捕ってしまう。  電車を池袋と赤羽で乗り換えた。そして東十条で降りる。『アパートメント青木』に入り、二一五号室のドアをノックする。だが、返事がない。外出しているらしい。ドアの前にしばらく立っていた。アパートの住人たちが彼を気にする。アパートを出て、表で待った。  もしかすると、加津子はいま、犯人と会っているのではないか、と思ってみる。会って金を要求する。するとどういうことになるのか。犯人は要求通りの金を出すのだろうか。 「加津子は狙われるな」  と呟いた。犯人の立場としたら、加津子を始末したほうが早いし、安全でもある。  考えてみると、その辺がわからなくなる。徳次を殺すのに、なぜ加津子を使ったかである。完全犯罪のつもりだったのか。たしかに徳次が病死ですんでいれば、加津子も何も疑わずそのままですんでいたかもしれない。  だが、蝮毒を使っても、殺人事件になる可能性はあった。犯人がそれを予想しなかったわけはない。予想できれば、犯人は、京都駅から加津子を『さくら』に乗せずに、一人で降りてしまったほうがよかったのではないのか、加津子を身代りに乗せたために、逆に危険が迫り、加津子まで殺さなければならなくなる。  もっとも、殺人事件というのは連鎖反応を起こしやすい。一人を殺せば、その一人を殺すために利用した人間の口もふさがなければならなくなる。ひどく無駄なことをしているように思えてくる。  加津子を『さくら』に乗せたのには、別の意味があったのか。  亨は煙草の吸殻を落し、靴で踏んだ。五本の吸殻が落ちていた。ベルトに挟んだ扇子を抜き、開いてあおぐ。徳次が書いた漢字が目につく。だが、この文字はまだ何も語ってはくれない。  徳次は、なぜこんなものを書いたのか、団地の住いには何本かの扇子が残っている。夏になるといつも扇子を持ち歩いていた。何本かのうち気に入ったものを取っ換え引っ換え使っていたようだが、この扇子は、病院の霊安室で、遺品として亨ははじめて見たものだった。わざわざ白扇を買って来て、うまくもない文字を書いたのだ。このような趣味があったわけではない。平栗刑事は、一種のダイイングメッセージかもしれないと言った。だから、こうして持ち歩いて眺めているのだが、わからない。徳次の意志があるのなら、いつかはわかるだろう、と思っている。ただどこかの漢書から写しただけのものでなければであるが。  徳次には、もしかしたら殺されるかもしれないという思いがあって、こんなものを書いた。殺される予感が強いものであれば、もっとはっきりしたものを残していただろう。そうしなかったのは、徳次の中にも、まさかという思いがあったのだ。それでも何か残しておかなければならないと思い、扇子に文字を書いた。  しかし、徳次が亨に残すつもりで書いたのなら、彼にも理解できなければならない。それがいまだわからないということは、 「おれは、よほど頭が悪いのだ」  と自嘲するしかない。頭がいいはずはなかった。八回も司法試験に落ちている。平栗良三は三回落ちて諦め、警察に入った。亨は諦めることさえ知らないのだ。もっとも平栗も、扇子の文字は写し取っていっている。その返事がないところをみると、平栗にもまだわかっていないのだ。 「紳綺雌北枯」  呟いてみたところで、むこうから赤座加津子が歩いてくるのを見た。亨は動かないで彼女を見ている。怠《だ》るそうな歩き方だ。日傘をさしている。まだまだ残暑は強い。アパートに入ろうとして、亨の視線に気付き、ビクッと足を止めた。そして彼が歩み寄るのを待つ。 「あなたなの」 「もう少し、聞きたいことがありましてね」 「あたしには何もないけど、立ち話もできないでしょう」  と言って加津子はアパートに入った。そのあとに続く。階段を上っていく彼女の腰のあたりを見ている。立派で魅力的な腰である。部屋に入り先日と同じ椅子に坐った。 「ビールのほうがいいでしょう」 「かまわないで下さい」  というのに、彼女は冷蔵庫からビールを出し、グラス二個を並べた。亨が栓を抜く。二つのグラスに注いだ。 「暑いわね」  と言い、ぐいとビールをのんだ。彼も口をつける。 「何なの。言って」  向いに坐って真正面から亨を見て来た。何か挑戦するような目だ。 「あの『さくら』の中で、あなたの向いの席にお婆さんがいましたね、憶えていますよね」 「ええ」 「佐賀の人で西乃ときさん。お孫さんに会いに上京するところだったんです。娘さんが結婚して東京に住んでいるので。その西乃ときさんに先日会って来ました。佐賀まで行きましてね。この間はこのことを赤座さんに話せませんでしたが」 「どういうことなの」 「西乃さんは、佐賀から『さくら』に乗ったとき前に坐っていたあなたと、翌朝、オヤジのことで騒ぎになったときのあなたは別人だったと言うんです」 「そんな、あたしと誰かがどこかで入れ換ったっていうの。そんなはずないわ。あたしはずっと乗っていたわ。あのお婆さんボケているんじゃないの。あたしは化粧を落していて浴衣着ていたから、そんなに見えたんじゃないの」 「長崎から乗っていた女性は京都で降りて、あなたは京都から乗って来たって」 「冗談じゃないわ。あたしがどうして京都から乗るのよ。キップは長崎から東京までよ。車掌がちゃんと検札したのよ。車掌に聞いてみればいいじゃない。京都で降りる人は『さくら』なんかに乗らないはずよ。お婆さんの勘違いじゃないの」 「もっとも、西乃さんははっきり言ったわけじゃない、そんな気がしたと言っているだけですがね」 「それごらんなさい。そう言えばあたし、トイレに行ったわ。どこかの駅に止っていた。あれ、京都だったのかしら。あたしは長崎で二泊したのよ、長崎グランドホテル、あたしの宿泊カードも残っているはずでしょう。長崎で買ったべっ甲のイアリングもあるわ。見せましょうか、と言っても、そんなものじゃ信用しないわね。他の人が買ったって同じだもの」 「乗車券のことは考えてみました。あなたは入場券を買って前の女性の東京行きの乗車券と交換した」 「京都駅で調べてみたら。その時刻だと乗降客も少なかったはずだし、入場券で改札口を出入りした人がいるかどうか」 「ぼくは、そのことで赤座さんを問いつめようと思って来たんじゃないんです」 「だったら何なの」 「あなたには父を殺す動機はない。あなたは殺さなかった。父が殺されるとは思ってもいなかった」 「何を言いたいの」 「あなたは、あなたに似た女性と入れ換ったとします。例えばです。西乃さんの言葉を信じたとしてです。おそらく、その女性が父を殺したんでしょう。証拠は何もありません。ぼくの推測だけです」 「それで?」 「その女性は完全犯罪だと思っていた。だけど殺人だとわかってしまった」 「どうして殺人だとわかったの」  加津子にしては気になるところだろうし、知っておきたいことでもあるはずだ。亨は自分の喋ることが犯人に伝わるであろうと期待している。 「蝮毒死であることは、この間話しました。そして『さくら』の中に蝮などいなかったことも。毒蛇に咬まれると、あとに二つの牙が刺さったところが青く腫《は》れ上ります」 「それが、あなたのお父さんの体に残っていたのね。マムシがいなかったとは聞いていないわ。探したの」 「東京駅で駅員と警察が探しています」 「マムシは逃げたあとだったかもしれないじゃない」 「まあ聞いて下さい。刑事の一人が父の青い腫れた部分の二つの牙のあとを測ったんです。牙と牙との幅をです。十五ミリあったそうです。ところが十五ミリの蝮なんてのはいない。大きくて十二ミリだそうです。つまり、犯人はオヤジの体に適当に二度、注射針を刺し、毒を注入したのです。これで直接蝮に咬まれたのではないことがわかったのです」 「…………」  加津子は、なるほどと納得したように頷いた。 「それで警察はひそかに動いているし、ぼくは二度もここに来ました。犯人は、すでに完全犯罪でなくなったことを知っているはずでしょう。いま、その犯人のことを知っているのは、赤座さん、あなただけということになります」 「あたしは何も知らないわ」 「でも、犯人は、あなたが自分のことを警察に喋るんじゃないかと心配する。ぼくが言っていることがわかりますか」 「次に狙われるのは、あたしってこと?」 「ということは、あなたはやはり京都から『さくら』に乗った」  加津子は、亨をみつめ、そして、急に笑い出した。 「あなた、ただ推理しているのでしょう。例えばの話よね。あたしを乗せて喋らせようとしても駄目よ」  だが、充分に反応はあった。佐賀のお婆さんの言ったことは、思い違いなんかではなかった。だが、加津子にその女のことを喋らせなければ、少しも進展はしない。加津子は目を宙に浮かせた。別のことを考えているのだ。ビールを空になったグラスに注ぐ。 「ぼくは、赤座さんに忠告しているんですよ。犯人はあなたの口をふさぎたがっている。もしかしたら、いま外からこの部屋の様子をうかがっているのかもしれない。あなたが口を開けば、犯人は殺人犯として逮捕される。すでにその女性は一人を殺している、とすれば二人目を殺してもたいした違いはない。殺人犯の心理状態というのはそんなものでしょう」 「あなたは、あたしを脅しているつもりなの」 「ぼくは親切で言っているつもりですけどね。オヤジは六十二歳だったけど、それでも死ぬには早すぎた。それに比べれば、赤座さん、あなたはまだ三十でしょう」 「ご親切は有難いけど、あたしのことならかまわないで」 「赤座さんは、犯人の秘密を握った。それはかなりの価値のあることかもしれませんね。一千万円、いや三千万か四千万、相手によって一億円くらいの価値がある」 「小銭さん、あなたは何を言っているの」 「別の方向から見れば、あなたには大変なチャンスがやって来たのかもしれない。あなたにも運が向いて来た」 「帰って。出ていって」  加津子は椅子を蹴って立ち上った。叫んで当り前だろう。彼女はいま亨が口にしたのと同じことを考えていたはずだからである。 「帰りますよ。だけど何かあったら、ここへ電話下さい。あなたの力になれるかもしれません。夜はたいてい居るつもりです」  亨は、団地の電話ナンバーを書いたメモを置いて部屋を出た。あれだけ言っておけば効果はあるだろう。  加津子が三十になるまでどんな生活をして来たかは知らない。だが、少くともいまは、倖せな人妻ではない。金の面で夫誠史に苦しめられている。それで、殺人事件とは知らずに片棒をかつがされてしまったことを知ってしまった。  彼女に欲がないわけはないのだ。亨が言ったように、自分にも運が回って来たと思っている。その欲がある限りは、たとえ警察で訊問されても犯人の名前は口にしない。三千万円か四千万円か、あるいは一億か、そんな数字を思い描いている。ということは、犯人はそれくらいの金を出せる人物なのか。     4  亨は、東十条駅のホームに上った。誰かに見られているような気がして首を回した。十数人の男女がそれぞれのポーズで立っていた。彼は、その中の何人かを記憶にとどめた。  電車が入っている。その電車に乗り、次の駅の赤羽で降りる。地下道を通って池袋行きの埼京線電車に乗る。回りを気にしていた。池袋のホームで赤電話をかけた。警視庁の平栗に連絡を取ろうと思ったのだが、彼は不在だった。ホームのむこうに、背の高い男が立っていた。一八○センチはあるだろう。体つきは細いがしなやかそうな体だ。空手をやる亨にはそれがわかる。三十一、二、亨と同じほどの年齢である。この男は、東十条のホームにいた。  ジーパンに白いシャツを着ていた。男は横顔を見せている。亨を視界に入れている。敵だろうか、と思ってみた。亨は、受話器をもどして、男に歩み寄った。  男はちらりと亨を見て笑った。白い歯が見えた。亨が声をかけようとすると、男は動き出し、地下への階段を小走りに降りていった。弾力のある足である。  電車がホームに入って来て、それに乗る。尾行を諦めたのかと思ったが、新宿駅で降りたとき、その男の姿を見た。  赤座加津子は、あの男に見張られていたのか。男が敵だとすれば、敵は亨の存在を知ったことになる。  三光町の弁護士事務所にもどると、津知田涼子が待っていた。 「亨、今夜、あたしとつき合って」 「いいよ、どうせアルバイターだから」  涼子が案内したのは『ベーター』というバアだった。長いカウンターが延びた店で、カウンターの中に四人のバーテンダーがいた。亨も涼子に連れられてこの店には何度か来たことがある。  カウンターのほぼ中央に涼子と並んで坐った。涼子は小柄な体の細い女である。身長一五五センチ、体重も四十キロ前後しかなさそうだ。長い髪を後ろで束ねている。化粧もあまりしていないので、どうかしたときには女子高生に見えることもある。  大学のころには、よく涼子のノートを借りた。だからいまでも頭が上らない。彼女は三年前に司法試験に通り、いまでは弁護士である。彼女の父も兄も同じ弁護士、弁護士一家なので頭脳の構造が違うのかもしれない。 「ビールにする?」 「いや、水割りでいい」 「一杯だけビールをつき合ってよ」 「いいさ、おれはアルコールなら何でもいいよ」  バーテンにビールをたのむ。小ビンのビールが二本運ばれて来た。ハイネケン、ドイツビールである。小さなグラスにバーテンが注いでくれる。 「亨とこうして呑むの久しぶりね」  グラスを合わせ、一気にのむ。小女だが、涼子の横顔は端正できりりとしている。もちろん生まれも育ちも亨とは違う。父親の財産は数十億といわれている。膨大な土地があるのだと聞いていた。  亨はビールを空にし、ウイスキーの水割りにする。涼子はブランデーの水割りである。 「話してよ」  涼子には知る権利がある。スポンサーなのだから。福岡の智恩寺、佐賀の西乃とき、そして赤座加津子のこと、当然、父徳次のことと扇子の文字。 「まだここまでしかわかっていない」 「上等よ、そこまでわかっていれば、事件の形は見えて来たじゃないの」 「加津子が喋ってくれれば一番早いんだけど、簡単には口を開いてくれないだろうな」 「お父さんの扇子というのを見せて」  扇子を涼子の手に渡した。彼女はそれを開いて眺める。 「下手な字だ」 「ムードはあるわよ、枯れているわ」  今度の事件のことを涼子に話すのは今日がはじめてだ。彼女には彼女の仕事があった。ある夫婦の離婚を引き受けているらしかった。 「紳綺雌北枯……」  涼子は文字を声にして読み上げた。そして閉じると黙って亨に渡した。 「今度の事件、あたしもずっと考えていたのよ、わからないのよね。亨のお父さんを殺すのが目的ではないような気がするの。どうして赤座加津子を加える必要があったのか」 「おれもそこは考えたよ。ほんとは赤座加津子を殺すためなのか」 「それも違うような気がする」 「女の勘というやつか」 「いまは、そういうしかないけど、完全犯罪を狙ったのだとすると、何のために赤座を使ったのかしら、人を殺すのに誰かを利用しようとすれば、利用した人の口までふさがないといけなくなるわ。できれば人は使わないで、自分一人でやったほうが秘密は洩《も》れにくいのよね、亨、もう一度、扇子を見せて」  涼子は、亨から扇子を受け取ると開いた。 「この最後の一行、礫投転刹《れきとうてんさつ》、この四文字に何か犯罪の匂いがするのね。礫というのは飛礫《つぶて》、投は投げる。小石を投げて転んだ。刹《せつ》は仏骨をおさめる塔のことよね。刹那《せつな》は短い時間、刹鬼といえば、鬼、悪魔のことになるわ」 「おれも、調べてみたんだ。石礫を投げる。これを印地《いんじ》打ちというらしい。古代では印地打ちはいまの鉄砲ほどの意味があり、印地打ち技の達人がいた。石は呪力を秘めていたと考えられていた。『義経記』には、『土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ』とあって、印地という勢力があった。また印地は『京中の下人《げにん》』で、辻ごとに石礫《つぶて》を投じ合って互いに殺害し合った。京中の下人とは白川者とか白河の印地、あるいは向《むかい》飛礫《つぶて》の輩とよばれた人たち。南北朝時代には、楠木正成がさかんに印地者たちを活用していることが『太平記』に出てくる」 「そういえば、四行の下に楠という字があるわね、そうなると、やはり漢詩なのかしら、�鴉�があったり�雌�があったり、�狄�はどういう意味かしら」 「違うな、おれにはこの文字にそんな深い意味はないような気がする」   紳綺雌北枯   祥峡鴉頃胡   狄仮悔   移塀楠   礫投転刹  涼子は、この五行の漢字をしばらく眺めていて、やはりわからないわ、と呟いて、扇子を閉じカウンターの上に置いた。考えれば考えるほどわからなくなる。 「その赤座加津子と入れ違った女、ただの女じゃないわね。蝮毒を兇器に使うなんて。日本の犯罪史上ないんじゃないかしら」 「それで、警察は初動捜査に遅れをとった。いまだ殺人事件とするのにためらっている」  涼子もブランデーの水割りを亨と同じピッチでのむ。体は細いが酒には強いのだ。 「その、上品な美女というの、殺したいのは亨のお父さんではなかったんじゃないかしら。別に殺したい人がいる」 「すると、オヤジはついでに殺されたことになるのか」 「二十年ほど前の記録だけど、Aという男を殺すのに、BとCを殺したという事件があったわ。Aだけを殺したのでは、すぐに犯行がばれてしまう。A、B、Cと三人を殺せば、焦点がなくなって、犯人がわからなくなるという事件、結局は犯人は逮捕されたけど」 「殺す動機がわからなくなる、ということだな」 「そうよ、捜査当局では、三人が殺されれば三人共通の動機を探そうとするわね。だから事件がわからなくなる」 「そういうの、ミステリー小説にもあったな。すると、オヤジはAか、次にBとCが殺される。Bは赤座加津子になりそうだな」 「ただ、そういう可能性もあるということよ。でも、警察ではそういう考え方はしないわね」  店のドアが開いた。振りむくと平栗良三が入って来たところだった。 「どうして平栗が」 「あたしが呼んでおいたのよ」  やあ、と手をあげて彼は、涼子のむこう側に坐った。大学法学部の仲間が三人揃ったことになる。彼はブランデーをたのんだ。ブランデーグラスを手に包み込み、香りを嗅ぎながらのむ。刑事のくせに気障《きざ》な呑み方をする。 「赤座|誠史《たかふみ》に会って来た。会社の同僚に話を聞くと、会社の金に手をつけ、二百七十万ばかり穴をあけていた。それが、数日前にきれいに埋められているんだな。妻の加津子が金を入れたらしい。京都から『さくら』に乗った礼金の一部と考えてよさそうだな」 「赤座誠史は何と言っていた」 「何も言わんさ、ただニヤニヤ笑っているだけだよ。加津子の実家で金を出していると思っているようだな」 「金は競輪に使ったのか」 「そうだろうな、ところが、もう三十万ばかり、サラ金から借りているようだ。どうしようもない男のようだ。同僚たちは、赤座夫婦は離婚するんじゃないか、と言っているよ」 「加津子の家にはお金があるの」  と涼子が平栗に顔を向ける。 「あっても出さないだろうな。彼女の父親というのは、年金生活者だ。これまで加津子のために、かなりの金を出していると聞いた。これ以上金を出したら、両親の老後が心配になる。競輪に使う金なんて出せるわけないだろう」 「そういうことだろうな」 「それに、誠史には愛人がいる。後藤陽子という三十五歳になる人妻だ」 「それを加津子は知っているの」 「さあ、どうかな」  亨は、池袋のホームにいた背の高い男を思い出していた。一体何者なのか、亨を新宿まで付けて来た。あるいはこの店の前で見張っているのかもしれない。男はある種のムードを持っていた。暴力団員ではないが、それに似た何かである。亨にはその何かがまだわからない。ただの男ではないことは確かだ。ニヤッと笑ったあの顔が、まだ瞼に残っていた。  四章 消えた死体     1  九月七日、月曜日——。  前日までは、雨模様で涼しかったが、この日はまた残暑がもどって来て暑かった。  小銭亨《こぜにきよう》は、横浜駅のホームに立っていた。寝台特急『さくら』は、東京駅を一六時四〇分に発車し、横浜には一七時一分に着く。一分間停車で一七時二分には動き出す。この『さくら』には平栗《へぐり》刑事も乗っているはずである。亨は東京駅まで出るよりも横浜のほうが近いのだ。 『さくら』がホームに入って来た。亨は七号車の乗降口から乗り込んだ。列車は先頭が一号車で後が十二号車になる。一号車から七号車までが長崎行、八号車から十二号車が佐世保行になる。二号車がA寝台、五号車が食堂車、他がB寝台だが、一号車と十二号車が禁煙車になっている。  平栗がどこに乗っていたかわからなかったが前に歩いていけば、どこかにいるはずである。各車輛左窓側が通路になっていた。七号車から六号車に移る。通路を歩きながら、 「いかんかな」  と思った。もしかしたら、亨の顔は犯人に知れているかもしれない。池袋のホームにいた男を思い出す。あの男が犯人の仲間だったら、すでに顔は知られている。いや、その前に、父徳次が殺されたのだから、亨の顔くらい知っているだろう。いまさら顔を隠してもはじまらない。  食堂車の五号車を通り抜けた。亨の席は四号車の6下席である。四号車を抜けて三号車に入る。平栗は三号車の中ほど、通路に立って煙草を吸っていた。5下席である。席は半分ほど空いている。車掌に話せば、席はどうにでもなるはずである。  平栗と向い合って坐った。 「困ったことになった。赤座加津子は、二号車だ」 「A寝台か」 「ああ、A6下席だ。どうやら彼女は乗車券を渡されたらしいな」 「そうなれば、おれたちもA寝台に移るしかないな」  とにかく、というように亨も煙草を咥《くわ》え、火をつけた。  亨は昨夜、午前二時ころ電話のベルで起こされた。眠ったばかりの時間だったせいか、なかなか目がさめなかった。 「何しているの」  その声で、赤座加津子とわかった。 「あたし、明日の『さくら』で長崎に行くわ」  どうして、と聞こうとしたときには電話は切れていた。亨はダイヤルを回し、平栗の家に電話を入れ、その件を告げた。深夜であっても非常事態だ。  加津子が、なぜ亨に電話して来たかは、考えるまでもなかった。彼女も恐ろしくなったのだ。もしかしたら口を封じられるかもしれないという思いは当然ある。殺されるかもしれないという恐怖はあるが、他に助けを求める男はいなかった。誠史《たかふみ》はあてにはならないし、金を手に入れたら離婚しようと思っている。夫の力を借りるわけにはいかない。もし協力させれば、金のほとんどは持っていかれることになる、とすれば、こわい思いをしたことが水の泡になる。  亨に脅され、加津子はこわがっている。理論的にも犯人は彼女を消したがっている。だがこわくて背を向けたのでは金は手に入らない。虎穴に入らずんば虎児を得ず、といった心境だろう。恐ろしくても犯人が指示した『さくら』に乗らないわけにはいかない。それで誰かに近くにいて欲しかった。その誰かは亨の他にはいなかったのだ。金さえ手に入れてしまえば、どのようにでも言いわけはできる。  加津子は、犯人に大金、おそらく五千万円くらいだろうが、要求した。それで犯人は、九月七日の『さくら』に乗れ、列車の中で渡すといった。東京から長崎までのどこかで。そしてA寝台の乗車券が渡された。加津子としてはいやでも『さくら』に乗らなければならない。たとえ殺されても金は欲しい。それで亨に助けを求めた。そういうことだろうと思う。 「犯人も、この『さくら』に乗っているのかな」 「乗っているだろう。乗っていなければ加津子は殺せない」 「犯人らしい女は、A寝台に乗っていなかったか、上品な美人、背丈も一六二、三センチはあるはずだ」 「そんなことはわからんよ。A寝台といっても一人や二人ではない。それに顔を見せない客だっている」 「刑事の勘というやつは働かないのか」 「刑事は勘で動くんじゃない。理屈で動く」  亨は二本目の煙草に火をつけた。通路は乗客が行ったり来たりする。トイレに行くもの洗面所に行くもの、食堂車に行く人たち。亨も平栗も、食堂車でビールでものみたいところだが、今回はそんなのんびりした気分ではない。加津子が殺されるかもしれないのだ。 「明るいうちは動かないだろう。人目もある」 「深夜だな」 「深夜というとどこいらだ。大阪の前後か、大阪は二三時二四分、というと十一時半近くか」  平栗が時刻表を見ながら言った。ページをめくる。 「おい、大阪から徳山までは、この列車は止まらないぞ、岡山も広島もだ。徳山に着くのが明日の午前五時八分だ。その間、五時間四十二分、六時間も止まらずに走るわけだ」  亨は時刻は気にしていなかった。この列車には、父徳次を殺した犯人も乗っている。そのことが妙に神経を圧迫していて気が重かった。 「少しは眠れそうだな」 「おれは眠れんだろうな」 「たとえ、加津子を殺しても、犯人は逃げられん、列車は走りっ放しだからな。逃げられんと思えば、犯人も彼女には手を出せない。殺したら、すぐに現場からできるだけ遠くに逃げたいのが犯人の心理だからな」 「そうは言えんだろう。おまえが言っているのは、ふつうの犯罪事件の犯人だろう。今回は蝮毒を使っている。前例のない犯罪だ。おまえがこれまで体験して来た犯人とは違うんじゃないか」 「犯罪心理というのはそんなに変らんさ。似たものだよ。おまえの親父さんを殺した犯人だって、加津子を身代りにして京都で逃げている。現場からは一メートルも遠く、一秒も早く逃げたいものなんだ」 「まあ、それはいいさ、おまえはプロなんだからな」  そこへ車掌が通りかかった。 「実は、協力願いたいんですが」  平栗刑事が、ちらりと警察手帳を見せた。 「周りに聞かれたくありませんので」  と彼は車掌を隣りに坐らせた。 「われわれは、ある人を尾行しているんですが、その人はA寝台にいます。ここでは張り込みにくいので、A寝台に移りたいんです」 「何か事件ですか」 「事件が起っているのなら、正式におねがいしますが、いまのところ起るか起らないかわからないものですから」  車掌は座席表をしばらく眺めていた。 「その方の席は」 「A6下です」 「その周りは下段がつまっていますね。お二人なら上下がいいわけですね」 「まあ、そういうわけです」 「13の上下が空いておりますな、少し6下からは離れていますが向いになります」  座席配置を見せてくれた。A6席は、ほぼ中央の左側、13はA寝台の一番後だが右側、見張るにはちょうどいいかもしれない。 「そこをお願いします」 「長崎まで空いていますので、どうぞご自由にお使い下さい。ただ、他の乗客に迷惑にならないようにお願いします」 「わかっています」 「乗車券はそのままで結構です」  亨の乗車券だけを平栗の前、三号車6下に変えてもらった。鉄道もJRになってからサービスがよくなったものである。 「もし何かあったらお知らせ下さい。主任車掌一人と車掌がもう一人乗務しておりますから」  主任車掌は、二号車、A寝台車の乗務員室にいるという。二号車の前方にトイレと洗面所があり、後方に、乗務員室がある。主任車掌はそこにいる。つまり、三号車からいけば一番近いところだ。 「どうも、ご協力感謝します」 「主任車掌にも伝えておきます」  車掌は、敬礼して去っていった。 「どうだ、いまのうちに夕飯をすましておこうか。徹夜となると腹も空く」 「そうだな」  二人は席を立った。そして五号車の食堂車に行く。食堂車は席の半分が空いていた。空いているときには向い合って坐れる。ポークカツカレーを取る。 「小銭、何を考えている?」 「ちょっと気になってな」 「何がだ」 「どうして『さくら』なのかな。犯人はどうして『さくら』にこだわるんだ。寝台列車ならいくらもある」 「そうだな、『さくら』に何かあるのかもしれんな」 「何かあるとすれば何だ」 「犯人の事情だろうな」 「事情って何だ」 「そんなこと、おれにもわからんよ」 「オヤジは『さくら』で殺された。そして今度もだ」 「赤座加津子が殺されるとは決っていない。ただ、おまえに告げただけだろう」 「彼女が殺されるとしたら、おれたちがそれを防げるのかな」  そこに、カレーライスが運ばれて来た。二人はそれを、あっという間に平らげた。 「ビールくらいいいだろう」 「ちょっと気になるけどな」  二人は、二本のビールを取った。それぞれ自分のグラスに注ぐ。 「加津子を守るのに、警察は動かないのか」 「動かない。だけどこうしておれが乗っている。おれ一人ではたいしたことはできんけどな、第一、赤座加津子が助けを求めているのならとにかく、ただ『さくら』に乗ると言っただけだろう」 「助けを求めているのと同じだろう。犯人は金を渡す代りに、加津子を殺そうとしているんだ」 「それは、おまえの推測だろうが。しかも彼女は大金を受け取ろうとしている。恫喝《どうかつ》だよ。そんな加津子に警察は手を貸すわけにはいかんよ。犯罪の手助けをすることになる。それが公表されたら、マスコミに叩かれる」 「礫投転刹《れきとうてんさつ》か」 「そうだな、国民の投石を浴びることになるな」 「礫投転刹とはそういう意味なのかな」 「加津子が、ほんとに犯人を恫喝しているのなら、恐喝容疑で逮捕できるんだがな。恫喝しているという証拠がない。恫喝されている側が警察に訴えるはずもないしな」 「礫投転刹とは、大衆の非難を浴びることかな。涼子も犯罪の匂いがすると言っていた」  二人は一本ずつのビールを空けた。もう一本といいたいところだが、そういう気分でもなく食堂車を出る。三号車を素通りして、二号車に入った。左右に上下の寝台があって、真中が通路になっている。     2  平栗刑事が13番の上段に上り、亨は下段に入った。たしかにB寝台よりもゆったりとしている。A寝台とB寝台の違いは、B寝台が列車の進行に乗客の体は横向きに運ばれるのに対して、A寝台は進行方向に体が縦に向いていることだ。やはり眠り心地は異るのだろう。  備えつけの浴衣はあるが、それを着るわけにはいかない。いつ動かなければならなくなるかわからないのだ。着たままでベッドに横になり、腹這いになって、カーテンの隙間から通路を見る。  6下席は半分はカーテンがかかっているが、赤座加津子の姿がちらりと見えた。彼女が眠れるわけはないのだ。もちろん、浴衣に着換えてもいない。落ちつかなげに、あたりを見ている。  横浜の次は、沼津、富士、静岡、豊橋と続く。その次は名古屋である。名古屋には二一時七分に着き、三分停車である。列車は名古屋を出たところだった。次の京都には二二時五四分着。 「おい、小銭」  と上席から平栗が降りて来た。 「二人で見張っていても、仕方がない。交代しよう」 「ああ、いいよ、おれが見張っている」  平栗は後ろのドアから出ていった。ベッドの中では禁煙である。B寝台ならば廊下へ出れば吸える。A寝台は、通路が中央にあるので煙草は吸えない。その代り、車輛後方、乗務員室の前が喫煙所になっている。煙草を吸いたい人はここに集ることになる。  亨は寝転び腹這いになり、カーテンを少しだけたぐり上げて、6番席をうかがう。6番の上の席は空いているようだ。犯人もこのA寝台に乗っていると思わなければならない。犯人のほうから、加津子に連絡をとってくるのだろう。それがどのあたりかわからない。あるいは長崎に着く寸前かもしれないではないか。  長崎に着いて、みんなが下車したあと、6下の席に加津子が死体になっていた、なんてことにはなりたくない。もちろん彼女は、父徳次殺しに協力した女である。その上に犯人から金をいただこうとしている。だから殺されていい女だとは思っていない。犯人を捕えることができるのなら、加津子も生かしておいてやりたい。  犯人は、亨と平栗が乗っているのを知っていて、加津子には手を出さないかもしれない。何事もなく長崎に『さくら』は着いてしまう。そうも考えてみる。  人を殺すのには、それなりに用心するだろう。加津子を殺したら、捕ってもいい、というのではなさそうだから。犯人は平栗刑事の顔は知らなくても、亨の顔は知っていると思っていたほうがいいだろう。  当然、加津子の周りを警戒している。それとも加津子が亨に電話するとは思っていなかったかもしれない。だからといって、殺人をやる人間が無防備ということはない。  この列車に乗って加津子を殺そうとしているのが男なのか女なのか、徳次を殺したのは加津子に似た女と思われているが、今度も女とは限らない。犯人の側には男もいるかもしれない。池袋駅ホームの男がいる。 「だが、おれは女のような気がするな」  と亨は低く呟いた。仲間がたくさんいてはあと始末に苦労することになる。  犯人が女だとすると、どういう殺し方をするだろうか、と思ってみる。その女が蝮毒を入れた注射針を持って現われるとは思えない。加津子は注射針には神経を尖らせているに違いない。  それに蝮毒を多くしても、即効性のある毒ではない。毒蛇に咬まれても、毒の強弱にもよるが、一時間や二時間は生きている。その間に抗蝮毒血清を使えば命は助かる。そしていまは蛇毒のワクチンもできていると聞いた。  注射器を見れば、加津子は悲鳴を上げるだろうし抵抗もする。たとえうまく蝮毒を注入したとしても意識を失うまではかなりの時間がある。その間に加津子は犯人のことは喋れる。これでは犯人は目的を達せられない。  犯人はどのような殺し方を考えているのだろう、と思ってみる。寝台からどこかへ連れ出す。どこへだ? 洗面所かトイレ、あるいはデッキ、だが、どうやって連れ出すのだ。犯人の誘いに加津子がうまく乗るとは限らない。  徳次のように寝台で殺したほうがいい。徳次は無防備だった。いや、いくらか警戒はしていただろう。だが、精神安定剤を常用していた。まさか寝台で殺されるとは知らずに、上段に上るとくすりをのんで眠った。犯人としてはやりやすかったのに違いない。  だが、加津子は違う。おそらく眠ることはない。ずっと警戒している。殺されるかもしれないという思いがあるから、眠ろうと思っても眠れない。そんな加津子を殺すにはどうしたらいいだろう。亨は自分が犯人になったつもりで考えてみた。  ジュースかコーラ、ウーロン茶に、青酸化合物か農薬を入れてのませる。これも相手が用心しているときにはのませにくい。あとは刃物ということになる。これも寝台では無理だろう。加津子は眠らないのだから始末に悪い。  寝台では方法がないとなると、加津子を誘い出す。それはどこなのか、車輛後方には乗務員室がある。車掌がいないときに、というのは考えにくい。その前の喫煙室、深夜には煙草を吸いに来る人はいないかもしれないが、眠れない客は喫煙に来るかもしれない。となると、車輛前方のトイレ、洗面所ということになる。乗客はたいてい眠る前にはトイレをすましておく。乗客が来る可能性は少い。  そのトイレに、誘い出すか呼び出すかする。どうしたら加津子は誘い出されるのか。トイレのそば、あるいはトイレの中で刃物で刺し殺す。少しくらい抵抗しても声をあげても、乗客にはわからないかもしれない。 「一度、トイレを見ておく必要があるな」  平栗と交代したら見に行こうと思ってみる。トイレのある洗面所と客室の間にはドアが一枚ある。声も通らないかもしれない。走行中ならば、震動と音がある。たいていの客は眠っている、とすれば、トイレは亨の位置からは一番遠いところになる。  もちろん、亨は眠るつもりはない。するとたとえ呼び出されても、加津子が寝台を出てトイレに行く後ろ姿は見れることになる。そこで犯人は、姿を見せることになるのか。  だが、と亨は思う。刃物で加津子を刺すとき、うまく一撃で殺せるのだろうか、犯人が男ならいざ知らず、加津子と同じ体格の女であるはず。たとえ相手が刃物を持っていたとしても、加津子には抵抗する力がある。傷を負わせただけでは、犯人にしてみれば失敗である。  亨は、ハッ、と起き上った。加津子がベッドから出て来たのである。スーツのままスリッパをはいている。彼はあわてて寝台を降りた。靴をはいて通路に出る。彼女はちょうどドアを開けるところだった。迷ってはいられない。  通路を小走りに歩いた。加津子の悲鳴を聞くのではないか、と思った。ドアを開けて、洗面所に入る。人影はない。左側が洗面所になっていて、右側に二つのトイレが並んでいる。加津子はどちらかのトイレに入ったようだ。  亨はあたりに気を配った。二つのトイレの間に飲料水のタンクがある。紙コップが備えつけてある。紙コップを一枚抜きとり、それに水を注いだ。冷水とある。洗面台に向かい、正面の鏡を見ながら水をのんだ。  手前のトイレのドアが開き、鏡の中にトイレから出てくる加津子が見えた。鏡の中で目と目が合った。彼女はニヤリと亨に笑いかけると、そのままドアから客室内にもどっていく。  その加津子の笑顔に、亨はムカッとなった。おれは一体何をやっているのだろうと。彼女が何千万かの大金をせしめるのを、手伝ってやっているのではないか。少くとも加津子を護衛してやっているのには違いないのだ。加津子と共犯、そんな気持ちにもなってくる。彼女は、ただトイレに来ただけなのだ。手にはハンカチを持っているだけだった。  ドアから女が入ってきた。五十年配の浴衣を着た女である。女は亨をじろりと見てトイレに入った。痴漢でも見るような目つきだった。  13番下段の席にもどる。加津子の席はカーテンを引き回してはいなかったが、亨は振り向かなかった。雑誌でも読んでいるのか、カーテンの中は明るい。  寝台に横になる。  加津子は、いまかいまかと犯人からの連絡を待っている。犯人は加津子に金を渡すためにこの列車に誘い込んだのではない。金を渡すためだったら、『さくら』などに乗せる必要はない。やはり殺すためだろう。  加津子もむざむざと犯人に殺されはしない。切り札は加津子が握っている。彼女に切り札を出させないためには、完全に殺すか、金を渡すしかないのではないのか。  カーテンの隙間から覗いていると、ときおり人が通る。前方には一号車がある。その乗客たちも食堂車には行くだろう。一号車のトイレは前方にある。一号車のトイレが詰っていれば、二号車まで来るかもしれないが、亨の前を通ることはない。  四、五人の人が食堂車からもどって来て、寝台に入る。その人たちと一緒に平栗が喫煙室からもどって来た。 「代るよ」  と言って、彼は上の台に上った。十一時を過ぎている。たしか食堂車の営業は十一時までだった。あと二十分ほどで大阪に着く。亨は靴をはいて、喫煙室に入った。そこではまだ二人の男が煙草を吸っていた。四、五人は坐れるシートがある。     3  二三時二六分に『さくら』は大阪駅を出た。これから徳山まで六時間ほどは、列車は止まらない。  加津子が殺されるとすれば、徳山から長崎までの間ということになるのか。列車が止まらなければ、加津子を殺しても逃げようがない。それとも他に方法があるのか。  亨は、もう一本の煙草を咥《くわ》えて火をつけた。煙りを吐く。列車は小さく震動している。外の気温は暑いのか涼しいのかわからない。列車の中は適温にエアコンが効《き》いている。  彼は、ふと沢田|佳子《よしこ》を思い出した。恋人である。三十一歳にもなって恋人の一人くらいいなくては男とはいえない。佳子とはこの三年つき合っている。前につき合っていた女は、すでに結婚していた。  佳子は二十六歳になるOLである。亨が司法試験に合格するのを待っている、というのではなかった。目的は結婚ではない。 「おそらく亨さんとは結婚しないと思う。まだ結婚するのは早いもの、せいいっぱい遊ばなくちゃ損するもの。遊ぶのに飽きたら、誰か適当な人をみつけて結婚するわ」  そんなような言い方をする。この夏も、友だちと何度か海に行ったようだが、亨は誘われなかった。 「恋人がいないと、あたしっていじけちゃうの、恋人もいない女と思われたくないのね。亨さんが恋人でいてくれれば、あたし安心していられるの」  そういう女の気持ちもわからないではない。週に一度か十日に一度デートする。そして体を重ねる。そこに愛し合う者同士の激しさみたいなものはない。欲望を女の体に注ぎ込む。佳子も数時間、肌を触れ合いさぐり合い、彼に注ぎ込まれることによって、どこか納得しているみたいなところがあった。  どうしていま、佳子のことを思い出したのだろう、と思う。加津子が殺されるかもしれないという緊張が昨夜から続いている。その緊張を本能的にほぐしたかったのかもしれない。  佳子とは、徳次が死んで以来会っていない。会う気になれないのではなく、忘れてしまっていた。団地の住居のほうに佳子から電話はあったのかもしれないのだが。  背丈も低いし、よく肉が付いていて美人の条件からは外れるが、女はどこかいいところを持っているものである。特に若ければである。目がいいし、女らしいところもある。肉付きがよくて肥り気味だが、肌の色は白い。  亨は、佳子の体を思い出して、思わず微笑した。セックスも、そしてその感じ方も人並みだろう。今度東京にもどったら、電話してみなくてはならんな、と思う。あまり長い間放っておくと心配でもある。  佳子と重ねて涼子《りようこ》を思ってみる。身長は佳子とは変らないが、涼子はシャープだし、細身で美しいし、知性もある。大学のときからどこか、かなわないな、と思うところがあった。  涼子が三十一にもなって結婚しないのは気になる。亨自身が結婚しないから、と自惚《うぬぼ》れたことはないが、涼子のような女と結婚すれば、疲れるだろうな、という思いはあった。生まれも育ちもいいということで、どこか我儘《わがまま》というところもある。もちろん、涼子が結婚しないのは、弁護士という仕事が面白いからだろう。家柄も育ちも違うものな、と思って苦笑する。だが、どういう男と結婚するのかなといった興味はあった。 「涼子は、まだバージンではないのかな」  と思ったりする。  思いはまた佳子にもどる。佳子を妻として見たとき、抵抗感はあまりない。佳子のように少しのんびりした女のほうがいい。  向いの乗務員室のドアが開いて、車掌が出て来た。二号車の寝台を世話してくれた車掌ではない。頭に白髪が目立つ五十近い男で、体も亨と同じほど大きい。主任車掌だろう。車内を見回るのらしい。  車掌は一号車に向かい、もどって来て三号車に消えた。それをきっかけに亨は13番席にもどった。 「どうだ」  と平栗に声をかける。 「動きそうにないな。小銭、少し眠れよ、代るときには声をかける」 「そうだな」  亨は寝台に仰向けになった。目を閉じると疲れているせいか、眠りの中に曳《ひ》きずり込まれていくようだ。赤座加津子は、キリキリ神経を尖らせているのだろう。  眠りの中で列車が止っているのに気付き、がばとはね起きた。徳山だと思ったのだ。 「おい」  と上段に声をかけた。 「徳山じゃないのか」 「まだ岡山だよ」 「岡山には止まらないんじゃなかったのか」 「時刻表には止まるように書いてない」  時刻を見ると午前二時を少し過ぎていた。列車はガタンと揺れて動きだした。 「おかしいじゃないか」 「運転停車というやつだろう。運転手が交代する。それだけで乗降客はない。第一、車輛のドアは開かないんだ」 「そういうこともあるのか」  亨はホッとして、寝台に横になった。だが気になって起き上り上段に声をかけた。 「彼女に動きはないんだろうな」 「大丈夫だ、徳山までは何も起らんよ」  平栗はずっと覗いていたのではないようだ。眠ってはいないのだろうが、仰向けになっている。うつ伏せになってカーテンをめくり上げて覗いているのは疲れる。  亨は靴をはいた。通路に出てみる。6番下の座席はカーテンが十センチほど開いていて寝台には灯りがあった。彼はそばまで行って中を覗いた。  赤座加津子の姿がない。あわててもどって平栗に告げる。 「なにっ、そんなはずはない」  平栗はあわてて降りて来た。騒ぐわけにはいかない。 「トイレだ」  亨にもそれ以外には考えられなかった。二人で洗面所に走る。人影はない。だが血の臭いを嗅いだような気がした。二つ並んだ先のトイレのドアを開く。開いた。だが、手前のトイレのドアが開かない。内からロックしてある。ドアをノックした。 「赤座さん」  と声をかけた。人の呻き声を聞いた、と思った。ドアを叩く。 「おい、見ていてくれ、車掌を呼んでくる」  亨は走った。そして乗務員室をノックした。車掌は起きていてドアは内から開いた。 「どうしたんですか」 「トイレのドアを開けてくれませんか、様子がおかしいんです」 「どうおかしいんですか」 「ドアが開かないんです。ノックしても返事がありません。呻き声が聞えたような気がしました」 「お客さんが急病でも」 「とにかく」  車掌はやっと出て来た。洗面所に向かう。 「誰かいるんですか」  平栗がトイレに向かって声をかけている。平栗が警察手帳を見せた。それで車掌も異変が起きたことを知った。キーをさし込み、ロックを外した。ドアを開ける。  亨はそこに赤い血を見た。床に浴衣姿の女が坐り込んでいた。それは赤座加津子ではなかった。さっきこの洗面所で会った五十近い女だった。  女は死んでいるように見えた。平栗が中に入って女の首筋に手を当てた。 「生きている!」  女が薄目を開けた。浴衣には血がついている。まだ乾いていない血である。 「大丈夫ですか」  抱き上げると女は自分で立った。だが、目はとろんとしていた。 「他の車掌を呼んで来ます」  と言って車掌は去る。亨がそばの水を汲んで女にのませた。女はその水を咽《のど》を鳴らして呑んだ。まだ意識がもうろうとしているらしい。だが、女の体には怪我をしている様子はない。 「どうしたんですか」 「まて、せっかちになるな、エーテルかクロロホルムのようなものを嗅がされたんだ」  平栗にはわかるようだ。  車掌が二人の車掌を連れて来た。 「ああ、刑事さん」  と若い車掌が言った。 「何があったんです」 「わからんよ」  亨は、赤座加津子の席にもどってみた。彼女のハイヒールはあった。スリッパで出たようだ。白いシーツの上に一枚の紙が落ちていた。四つに畳まれていた紙である。 『A寝台てまえのトイレに置いてある』  それだけが、妙に曲りくねった文字であった。洗面所にもどった。 「トイレの中に、二足のスリッパがある。一足はこの女性のものだ」  トイレの中を覗くと、血の流れた中に、四個のスリッパがあった。 「赤座加津子は」 「いない、こんなものがあった」  とメモを平栗に渡した。 「次は、どこに止りますか」 「広島に運転停車しますが」 「警察に連絡とって下さい。人が殺されたようです」  一人の車掌が去る。時間的に広島で刑事と鑑識が乗り込んで来られるかどうか。 「とにかくここではどうにもなりませんね」 「乗務員室がいいでしょう。前には更衣室もありますから」 「このトイレは両方とも封鎖して下さい」  車掌を一人残して、他は車輛の後方に移動した。何人かが目をさましたらしく、カーテンの間から顔を覗かせていた。 「すみません、あとで説明しますので、寝台からは出ないようお願いします」  五十女を喫煙室に入れた。そして車掌が別の浴衣を運んでくると、喫煙室の隣りにある更衣室で着換えてもらった。血だらけの浴衣は証拠品になる。  女は青い顔をしていたが、気持ちはしっかりしていた。 「お話していただけますか」 「はい」  と女は、目の前に立った男たちを見た。     4  トイレにいた乗客は、松田昭子、四十八歳だった。友人に会うために長崎県の諫早《いさはや》に行く途中だった。  平栗はまず、住所、氏名そして行く先と会う人の名前もメモした。  松田昭子は、このところトイレが近い。二号車の2番下が席だった。一眠りして用便のため寝台を出た。そして手前のトイレのドアを開け立ち竦《すく》んだ。そこに血まみれの女が坐り込んでいた。目は大きく、びっくりしたように見開いていた。胸のあたりがぐっしょり血でぬれていた。その女の服装は赤座加津子のものだった。  そのとき隣りのトイレから人が出て来た。 「人が死んでいる」  その人に向かってそう言ったとき、昭子は鼻孔と口に何かじとっとぬれたものを押しつけられた。身を揉《も》んで逃れようとしたが、その人は背中から抱きついていたので、動きがとれずそのままスーッと意識が遠のいた。 「クロロホルムだろうね」 「その人というのは、男ですか、女ですか」 「女の人です。でもわりに背の高い女で」 「着ているものは」 「浴衣だったと思います、背中から抱きつかれたとき背中に柔いものを感じました」 「顔は見なかったんですか」 「ええ、憶えていません。もしかしたら、顔は隠していたのかもしれません」 「他に、何か気がついたことは」 「すみません。どなたか煙草をいただけません」  亨が煙草をさし出した。それを一本抜きとって咥《くわ》える。ライターで火をつけてやった。松田昭子は、うまそうに煙草を吸った。それでどうにか顔色はもどったようだ。唇の周りが赤く染まって見えた。クロロホルムの強い刺激で炎症をおこしたのだろう。 「ドアのロックは、松田さんがしたのではありませんね」 「あたしに閉められるわけありません」 「するとトイレは密室になる」  まさかこの中年女が犯人の仲間であるわけはない。仲間だったらトイレの中に閉じ込められはしない。 「他に、何か思い出されたことは、ありませんか」  昭子は立ち上り、背を向けてみて、車掌の一人を指さした。 「この車掌さんくらいの背丈でした」  その車掌は身長が一六八センチと言った。赤座加津子は一六一、二センチ、犯人が彼女と同じような身長だったら、ヒールをはいていたことになる。服の上に浴衣を着ていたのか、浴衣は客席のどこにも備えつけてある。つまり見分けはつかないことになる。 「あれは香水かしら、いい香りがしました。オーデコロンかもしれない。高級なものね」 「またお聞きすることがあるかもしれません。どうも有難うございました。お席にもどられますか」 「ここにいていいでしょう。ベッドにもどっても眠れるわけないわ」 「どうぞ、けっこうです」  松田昭子は、亨の煙草に手をのばした。ひどい目に遭った。それに血しぶきの中に坐り込んでいたのだ。ショックだったはずである。 「すると、赤座加津子はどこへ行ったんだ」 「すでに死体になっていたのかな」 「亡くなっていたと思いますよ、あの目つきでは」  昭子が声をかけた。 「すると死体はどこへ行ったんだ。死体が一人で歩き出すわけはない」 「あたしを失神させた女が運んでいったんでしょう」  犯人は、松田昭子をトイレに入れ、加津子の死体を運び出した。その通りだろう、それしか考えられない。だがトイレのドアはロックされていた。これはあとでゆっくり考えてみなければならない。何とか方法はあるのだろう。だが、そうなると犯人は死体をどこへ運んでいったのか。なぜ、死体を運び出さなければならなかったのか。トイレの中に放置しておけばよかったではないか。運び出したとして、一体どこへ運んだというのか。岡山で運転停車はしたが、列車のドアはどこも開いていない。まだ『さくら』の中にあるはずである。 「すみません、主任車掌さん、ぼくと一緒に来てもらえますか」  平栗がそう言った。 「しかし、眠っているお客さんを起すわけには」 「客席以外のところ、各車輛のトイレとか更衣室とか、その他です」 「いいでしょう」  主任車掌は、平栗のあとからついていく。赤座加津子の死体はどこかに隠されている。それもロックされたトイレの中だったら、車掌がいなければ確かめられない。平栗としてはやれるだけのことはやっておかなければならないのだ。 「広島から、広島警察署の人たちが乗ってくるそうです」  もう一人の車掌が言った。広島駅と連絡をとっていたのだ。  亨は煙草を吸う。彼自身もショックだった。護衛しているはずの赤座加津子が、ほんのちょっとした隙に誘い出されて殺されてしまった。平栗に油断があった。だが、亨が見張っていても同じだったろう。徳山までの三時間あまりは列車は停車しないと思い込んでいた。たとえ加津子を殺しても、犯人の逃げ場はない、だから手を出すはずはない、と考えていた。その虚を衝《つ》かれたことになる。  死体も犯人も、まだこの列車に乗っていなければならない。死体は果してあるのか、犯人はどこかにいるのか。理屈としては合わないが、亨は、死体も犯人もすでにこの列車から消えているような気がした。  犯人は女だと思っている。上品な美女である。その美女が死体をかかえてトイレから去る。その光景を思い浮かべてみる。加津子は痩せてはいなかった。かなりの重量があった。六十キロはあったのではないか、その死体を女が曳きずっていったのか。火事場の馬鹿力という。犯人も必死だったには違いない。それにしても可能なのだろうか、そして、この疾走している列車の中、どこへ運んだのか。  亨は眠っていた。列車が止っているのにびっくりして起き上った。だが、平栗は覗いてはいなかったが起きていた。目の前の通路を曳きずっていけば、気付いたはずである。カーテン一枚で通路なのだ。  平栗が気付かなかったとすれば、犯人が死体を運んだのなら、平栗と亨の13番席より前ということになる。  このA寝台車のどこかの寝台に、犯人は死体を抱いて息を殺しているのか。だが、それでは、いつかはみつかることになる。犯人は計画的であるはずだ。そんな馬鹿なことはするはずはない。A寝台車の前は、一号車しかないのだ。  三号車より後は問題ないだろう。 「この二号車と一号車の乗客の中に、徳山で降りる客はいますか」  車掌に聞いてみた。車掌は乗客座席表を持っている。車内改札しチェックしているはずである。男女の性別、住所氏名はわからなくても、行先は記入してある。 「徳山は、一人もいませんね。ほとんどが、博多から先です。鳥栖《とす》、佐賀、肥前鹿島、諫早《いさはや》、そして長崎です」 「一号車と二号車に何人乗っているんですか」 「座席は一号車が三十二席、二号車が二十六席、合わせて五十八席ですが、ふさがっている席は、一号車が十四席、二号が十一席、合わせて二十五席、二十五人ですか、いや一人いなくなったのですから、二十四人ということになります」  そこへ、主任車掌と平栗がもどって来て、首を振った。三号車より後は関係ない。一号車と二号車の空いている席を調べてみようということになった。 「そうだな、空席なら調べられるよ」  今度は主任車掌が残った。若い車掌に平栗と亨が同行した。座席表をみながら、一つ一つ調べていく。もちろん他の客に迷惑をかけないように。  その結果、二十四席がふさがっていた。空席には異常はなかった。 「すると、おかしいことにならないか」 「どうしてだ」 「赤座加津子の死体は消えた。死体が消えているのなら、犯人も一緒に消えているはずだろう」 「すると、もう一席、空席があることになるな」  まさか、二十四席の中の一つに、犯人が死体を抱いているわけはないのだ。 「二十四人か、だったら、一人一人確認がとれるな。だが、停車する駅で、降りる客を見張っていなければならん、途中下車することも考えられる」 「その確認は、私たちがやりましょう」  と主任車掌が言ってくれた。 「それに、もう一つ、お願いしたいんです」 「何でしょうか」 「乗客にお願いして、一人一人、氏名と住所を聞いて欲しいんです」 「乗客の中に犯人がいるのですか」 「いるかもしれません。いないかもしれませんが、そこまでやっておきたいのです」 「わかりました。お客さまにお願いしてみましょう」  もちろん強制はできない、任意である。 「名刺をお持ちの方は、名刺だけでもけっこうです」  住所氏名を聞くのは夜が明けてからだろう。まだ深夜だった。     5  運転停車の広島駅から、二人の刑事と二人の巡査が乗り込んで来た。もちろん、この駅では他に乗降する人はない。それでも各車輛、車掌たちは目を配っていた。  徳山から、徳山警察署の鑑識係と二人の刑事が乗り込んだ。この駅も乗降客はない。平栗は、四人の刑事と二人の巡査に、事情を簡略に説明した。  殺されているはずだが、赤座加津子の死体がない。六人は、改めて一号車と二号車を調べた。何も出て来ない。鑑識はA寝台トイレ二室を調べはじめる。調べるといっても血液と指紋である。乗客用トイレだから指紋は無数にあるだろう。  トイレは覗いたままで封鎖していた。血しぶきの残るトイレから、鑑識係が小さな鉛を拾った。弾丸だった。あまり馴じみのない弾で、まるで魚釣りの錘《おもり》のようだ。広島の野中刑事が、 「22口径ですね」  と言った。径は5・5ミリ、0・22インチである。最小の拳銃弾である。弾丸が小さければ殺傷力も弱い。日本の事件では、22口径の拳銃はかつて使われたことはない、と言っていいだろう。たいていは38口径である。 「そんなもので人が殺せるのか」 「至近距離から射てば殺せるでしょうね」 「その弾は、人体を貫通したものなんだろうな」 「そのようですね。もしかしたら、被害者の体にはまだ二、三発残っているかもしれませんね。一発では心もとないから、続けざまに発射しているはずですから。22口径といえばポケット拳銃でしょうね、たしか、スミスアンドウェッソン社に精巧なポケット拳銃があったはずです。いまちょっと思い出しませんが、五発か六発は射てるはずです」 「ポケット拳銃となると、女性でも使えますね」  平栗が言った。 「使えますね」  亨は、そばに立って刑事たちの会話を聞いていた。彼に拳銃のことなどわからない。 「発射音も小さいのでしょうね」 「38口径にサイレンサーを付けたくらいの音じゃないですか、ハンカチかタオルでも巻きつけて射てばもっと小さくなるでしょう。列車が走っていたとすれば、ほとんど聞えなかったと思われます」  客室との間にはドアがある。  亨は、犯人が赤座加津子をどのような方法で殺すのだろうか、と考えていたことを思い出した。まさかポケット拳銃を使うなんてことは思ってもいなかった。だが、拳銃ならば容易に殺せるわけだ。最も確実な方法である。銃口を胸に押しつけて曳金を引けば、殺すことはできる。証人松田昭子は、加津子は大きく目を見開いていたと言った。銃口を突きつけられ、加津子は驚愕したのだろう。犯人がまだ列車内にいるとすれば、ポケット拳銃を寝台の中で握りしめているのだろうか。いや、そんなはずはない。犯人は計画的なはずだから、証拠が残るようなことはしないだろう。 「硝煙反応は出るのかな」 「検査すれば出るでしょうがね、一号車と二号車の客をみんな容疑者あつかいにはできないでしょう」 「乗客の持ち物をみんな検査するというわけにもいかんしな」  と初老の山村刑事が言った。 「第一、犯人は、まだこの列車にいるとすれば、もう拳銃は持っていないでしょう」 「死体と一緒に運び去られたか」 「死体はどうして消えたんだ」 「そのことは、あとで考えたほうがいいな」 「このトイレは密室だったと言いましたね」 「そうです。車掌に開けてもらいました」  トイレのドアの鍵は鉤《かぎ》式になっている。ドアに受金があり、一方から先の曲った鉤が下ってくる。その鉤はドアを閉めたショックで鉤が下りないよう、発条《ばね》でもとにもどるように作られていた。  松田昭子がクロロホルムを嗅がされ、失神した状態でトイレの中に押し込められていたのだから、密室であるわけはないのだ。彼女が失神からさめれば、自分でロックを外して出て来たのだろうが、車掌がドアを開けたときには、彼女はまだ動ける様子ではなかった。  この昭子を疑うとすれば、加津子の死体を運び出したあと、自分でトイレに入り、ドアをロックして、自分でクロロホルムを嗅ぎ失神した、ということも考えられるが、彼女を犯人とするには難しいようだ。もっとも、あとで赤座加津子との関りは調べられることになる。 「この密室は簡単に解消できるんじゃないですかね」  亨が言った。 「釣糸かナイロン糸があれば、簡単に外からロックできますよ。鉤になっている掛金に糸を巻きつけ、糸を外に出しておいてドアを閉め、糸を下に引きます。そのあと糸をたぐり寄せればいいわけです」  普通の糸では切れるだろう。だが、強くて滑る釣糸のたぐいなら、それも可能だろう。実験してみたいところだが、ここにはそんな糸はない。 「拳銃がありましたよ」  鑑識係が声をあげた。みんなの視線が一せいにそちらを向く。洗面台のそばにある金属製の屑箱がひっくり返されていた。係員は小さな拳銃をビニール袋に入れた。それにもう一つ、女ものとみえる白く長い手袋が片方だけ屑の中から出て来た。犯人は、手袋と一緒に拳銃を捨てていったのだ。 「ああ、それだ。思い出したよ、S&W社のM61エスコートという拳銃で、全長一二二ミリ、一二センチ二ミリですな、重量は四〇〇グラム、ハンドバッグにも簡単に入ります。装弾は五発プラス一発です」  野中刑事は拳銃にくわしいようだ。ビニール袋のまま拳銃は刑事たちの間を回された。銃把は白く銃身は黒々としている。手の中にすっぽり入ってしまうほどの大きさだ。 「この手袋では硝煙反応はむりでしょうね」  野中刑事は手袋をして、拳銃を掴み出した。そしてマガジンを外す。弾は二発残っていた。三発ないし四発が発射されたとみていいだろう。その中の一発が体を貫通したのだ。すると加津子の体には二発か三発の弾が残っていることになる。 『さくら』は、徳山から小郡、宇部、下関、門司と止る。亨はA寝台後方の喫煙室にもどった。そこには、まだ松田昭子が坐っていた。寝台にもどって寝る気にはならないのだろう。化粧をしていないので、額に小皺が目立っていた。 「どうせ眠れないんだから、あたし着換えてくるわ」  と自分の席に向かう。亨はシートに坐って煙草を咥《くわ》えた。犯人は亨と平栗が見張っているのを知っていて赤座加津子を殺したのか、だとすれば大胆である。  犯人は、メモを加津子の座席に投げ込む。加津子はトイレに金の入ったカバンが置かれているものと思い込み、スリッパのままトイレに入る。その前に亨に知らせることはしなかった。知らせれば何千万かの金を恐喝したことがばれてしまう。命は守ってもらいたいけど、金は亨に知られずに受け取りたかった。金を手にしたら、黙って逃げ出すつもりだったと思える。  トイレに入り、カバンを探しているところで銃口を向けられた。当然、加津子と犯人は顔見知りである。犯人は加津子を射殺し、加津子の体を運び出そうとしたが、松田昭子がやってくるのが見えた。それで隣りのトイレに隠れた。昭子は犯人の予想しない存在だった。ガーゼか脱脂綿にクロロホルムをしみ込ませてトイレを出る。昭子がトイレの中に倒れている加津子を指さして叫ぶ。犯人は昭子の背後に回り、背中から抱きついて、クロロホルムを嗅がせ失神させておいて、加津子の死体を運び出す。そのあと昭子をトイレの中に運び込んで、ドアを閉めロックした。  そこまで考えて、亨は首を傾げた。女一人でそこまでやってしまうのは困難なような気がする。そばにもう一人いたのではないのか。深夜であっても誰かトイレに来ないとは言えない。焦っていたに違いない。もう一人いたとすると、どういうことになるのか。  その間に、刑事たちは加津子の座席を調べたようだ。  平栗がもどって来た。トイレは洗い流さないと使えない。二人の警官を残して刑事たちは下関で降りて行ったと言う。第一、死体がないのだから、調べようがないのだ。  午前七時に近かった。  長崎には午前一〇時四〇分に着く。 「どうする、小銭」 「長崎まで行ってみるしかないな、一号車、二号車の乗客名簿を手に入れるためにも」 「そうだな、警視庁には、長崎から電話を入れよう」  松田昭子が服に着換えて喫煙室に入って来た。今度は自分の煙草を吸う。 「何かわかりましたの」 「まあ、ええ」 「あたしが事件に興味を持ってはいけないかしら」 「いいえ、松田さんは、事件の関係者ですから」 「あたし、こんな事件に遭うなんてはじめてなの。もちろん度々出会うわけはないけど」  かなりの興味を持っているようだった。 「それにしても、どうして死体を運び出したのかな。そのままトイレに置いていてもよかったはずなのに」 「列車から消えた死体、まさかマスコミが騒ぐのを狙ったわけではないのだろうに」 「どうして死体が消えたのか、その前に、どうして『さくら』の中で殺さねばならなかったのかを考えなければならんな」 「それは、『さくら』の中から死体を消すトリックを思いついたからよ」  松田昭子が口を出した。 「トリックね」 「でもトリックなんてものは、解けてしまえば簡単なことだと思うけどな」 「簡単なトリックほどわからないんじゃないかしら、列車の中から死体が消えたというトラベル・ミステリー読んだことあるわ。あたし推理小説というの好きなのよね。その小説では、列車が走るのに坂があって、その坂はもう一台の機関車が後から押さなければ上れないの。それで、犯人はその機関車に死体を運び込むわけね。その機関車は、坂を列車が上りきれば離れていくわけ。ところが、犯人は、機関車の機関士二人を買収しているわけよね。するとその二人も殺さなければならなくなる。そこから事件が洩れていくわけだけど、馬鹿げているわね、二人の機関士を買収するくらいなら、そんなの使わずに、自分だけ逃げてしまえばいいのに」  彼女は、かなりの推理小説ファンらしい。 「殺人というのは一人でやるべきよね。他人を利用したトリックなんて、トリックが破れそうになると、協力させた者まで殺さなければならなくなる。これこそ余計な殺しだと思うわ」 「松田さんのおっしゃる通りですね」  平栗が同調した。  亨は、この加津子殺しにも共犯者がいると思っている。加津子を殺してどこかに運び、松田昭子を失神させてトイレに押し込みドアをロックするには、一人では無理のような気がする。しかも犯人が三十歳前後の女だとすればなおさらだ。 「人を殺すには、トリックなんか使わなくて事故に見せかけたほうが、完全犯罪になりやすいんじゃないかしら」 「でも、トリックを使って完全犯罪になったケースもあるんじゃないのかな。われわれ警察が全く知らなかった事件が」 「完全犯罪というのは事件にもならないのを言うんでしょう。事件になったら、たとえ迷宮入りになっても、完全犯罪じゃないはずですものね」 「その通りです」  平栗は笑った。 「でも、完全犯罪や迷宮入りでは、ミステリー小説にならないものね。どこかで解決しなければ小説は終らないわけだし、犯人が捕まってしまうと、なーんだってことになる。もちろん、それなりに欺《だま》してくれればたのしめるんだけど、近ごろは気持ちよく欺されるってことがないのよ。はじめから犯人を予想するでしょう。するとたいていは当ってしまうのね」 「松田さんが推理小説ファンだからですよ。現実の事件となると、そううまくはいかないんです。われわれ刑事の仕事は九十八パーセントが無駄なんですからね」 「苦労なさっているのね」 「仕事ですから」  松田昭子にとっては、事件に巻き込まれ、ショックだったろうが、思い出深い旅になったようだ。  五章 扇子の漢詩     1  九月七日、月曜日——。  長崎の夜に小雨が降っていた。長崎には雨がよく似合うのか。八月には、晴れ上った日がほんの二、三日しかなかった。もちろん、毎年雨だというのではない。地元の人がそれぞれに口にする。今夏は特別なのだ。釣り好きな人は釣りに行けず、子供たちは海水浴にも行けなかった。  たまに訪れる人には、雨の長崎も悪くはない。百木《ももき》英太郎は、鍛冶屋町にあるクラブ『ボンソワール』で、ウイスキーの水割りをのんでいた。長崎では有名な店で室内装飾もシックで落ちつける。ホステスが十二、三人いて、それぞれに個性を持っていた。 「水害のときには、このところまで水が来たとよ」  と手で目の高さの壁を示す。何年か前の水害の話である。長崎の水害のことはテレビニュースで見た。思っていた以上に被害は大きかったようだ。  英太郎は、キャメルを咥《くわ》えた。そばに坐ったホステスがライターの火を突き出す。彼は手を振った。 「ぼくは、女に火をつけてもらうのは好きになれない、気にしないでくれ」  煙草の火をつけるにはタイミングがある。そのタイミングが合わないと、気分が悪いのだ。ホステスは習慣になっていて、客が煙草を咥えると本能的にライターを突き出す。そのライターに合わせるには、こちらのタイミングをずらさなければならない。それは彼にとってはうれしくないのだ。  彼は煙草を咥え、それを手にして、しばらく指で弄《もてあそ》び、それから再び咥えて火をつける。ホステスにそのタイミングに合わせてくれとは言わない。むつかしいことだからである。  長崎での仕事は終った。あとはホテルにもどるだけである。寺町の『吉祥』という割烹《かつぽう》で、地元の有力者二人と会った。二人とも快く承知してくれた。  英太郎は、公民党委員長、神崎《こうざき》八重の私設秘書である。十月に長崎でパーティをやることになっている。その準備のために来た。パーティは資金集めである。パーティ券を買ってもらわなければならない。地ならしを頼みに来た。もっともそれだけではない。英太郎自身、顔を売っておかなければならない。彼はまだ四十五歳と若いが、神崎八重のあと政界に打って出るつもりでいる。そのため秘書を十数年もやって来たのだ。  彼は身長が一七八センチあり、体重も八五キロ、押し出しのいい体つきだし、容貌だって悪くない。婦人票を集める自信はある。だが地盤と看板はしっかり押さえておかなければならない。名前も百木英太郎というのは、ポスターになったときも悪くない。  その英太郎にもライバルはいた。八重の息子の雅比古《まさひこ》である。八重は雅比古に自分のあとを継がせたいようだ。雅比古はいま神崎商事の専務である。 「雅比古は政治家むきではない。気が小さすぎる。おれのほうがよほど政治家むきだ」  口の中でぶつぶつと呟き、はっ、となった。 「何かおっしゃった」  ホステスが言った。このホステスの名前は真理、角ばった顔をしているが彫りが深くて味のある顔である。プロポーションもよく背も高いが、英太郎の好みではない。彼にとって女は丸くなければならないのだ。もっとも好みと興味は異るものだ。ベッドではどんな味を見せるのだろう、と思ってみる。 「どう、ぼくはグランドホテルに泊っているけど」  それとなく誘い水をかけてみる。誘いに乗ってくればいい、乗って来なくてもいい。彼は女を無理矢理に口説いてものにしたことはない。といって女に不自由はしていない。  政治家はエネルギッシュでなければならない。彼にはパワーがあり、エネルギーにあふれている。政界というのは化け物の世界である。その中で生きていくには、当人も化け物でなければならない。  雅比古はいかにも人間的で虚弱である。とても政界で生きていける男ではない。だが、親のひいき目というのもある。もちろん、八重の力があれば、当然できるかもしれない。地盤、看板、カバンが揃っている。倖せな男である。そうなると、雅比古を追い落さなければならない。雅比古自身に諦めさせるのが一番手取り早い。  英太郎はいまその策を考えていた。いまのうちに手を打っておきたい。幸いなことに雅比古は英太郎を味方だと思っている。英太郎にとって雅比古は最大の敵なのだが、敵はそれを知らずに相談を持ちかけてくる。彼には人を頼る癖がある。頼れば何とかなる。そういう思い込みがある。頼れるのは自分だけなのに。  席を立ち勘定を払って外へ出る。真理が送って出た。もう一度誘ってみた。今夜はホテルで独り寝ることになる。女に飢えているというのではないが、女はいつだっていい、毎夜だっていいのだ。  小雨の降る道を思案橋へ向かって歩く。傘はホテルで借りて来ているが、傘をさすほどの雨ではなかった。ネオンはきらめいているが、地方都市のネオン街である。東京の銀座や新宿の迫力はない。  今夜は、長崎に泊り、明日は大村線で佐世保へ向かう。佐世保から明日の寝台特急『さくら』に乗る。明日、佐世保で人と会わなければならない。これは私用である。  思案橋の通りへ出ると、タクシーを待った。地元の有力者からチケットをもらっている。ラッキータクシーを止め、グランドホテルと言う。ホテルに着き、キーを受け取り、部屋に入る。五〇三号室。バスを使って、電話でマッサージを呼んだ。体が大きいだけに肩がこるのだ。すぐにドアがノックされ若いマッサージ師が入って来た。この女では指にたいして力はないな、と思いながらベッドに横になる。 「強く揉んで欲しいな」 「はい」  と答える。女としてはましである。パンマではない。どこかおどおどしている。英太郎の力ならこの女は容易に組み伏せることはできるし、また口説くこともできるが、それほどには飢えてはいなかった。  明日、佐世保から『さくら』に乗れば、博多から女が乗り込んでくる。人妻である。真柄基子《まがらもとこ》という。亭主は海外に単身赴任していて淋しい体だ。英太郎も忙しいのでめったに会えない。  今日、東京から『さくら』で来て、博多までは一緒だった。長崎まで連れて来るわけにはいかないので博多で降ろし、福岡にホテルをとってやった。明日もまた『さくら』で一緒になれる。  長崎空港から飛行機を利用するのが近いし簡単だが、彼は飛行機が好きになれない。急用のときは仕方なく飛行機に乗るが、時間があるときには列車を利用する。足の下に何千メートルもの空間があるというのは、気持ちのいいものではない。足の裏がむずむずして落ちつかない。わずか二時間足らずの間だが、何度乗っても馴れるということがないのだ。  英太郎は、自分の他は何も信用できない。もちろん、いかに安全だといわれても、地上から足が離れるというのは恐ろしいものだ。  寝台特急で長崎に行くのだ、と言ったら、基子が連れていって、と言った。月に二度ほど都内のホテルで会っている。ホテルというのはわりに味気ないものだ。あるいは基子も寝台車のベッドを考えたのかもしれない。列車の寝台は眠るだけのものでなくてもいいだろう。このような情事も悪くない。肌をさぐりながら声をひそめる。基子はつい夢中になって声をあげる。その唇をふさぐのに苦労しなければならなかったが、それもまた刺激があって悪くはなかった。  二段ベッドなので、立つことはできないまでも、坐ることはできる。坐ることができれば、そのポーズも自由にとれる。一人が横になれる空間があれば、男女が重なり合えるということでもある。  住居とかホテルとか、あるいは車の中とは違って、薄いカーテン一枚で通路である。たとえ列車の中でも通路は野外と同じで、人が往来する。カーテンは容易にめくれる。そういう中で体を重ねるということは、当然刺激的である。 「あたし、凄かったわ」  博多で降りる前に、基子は頬を染めて言った。明日のことも彼女は期待しているのだろう。今度の旅行は成功だったな、と思う。また基子は彼の好みのタイプの女だった。三十三歳、女体として熟れきっているし、また彼自身も基子の体を開発したと思っている。もちろん、お互いに大人同士だし、妙にこじれることはない。  基子の体を思い出すと、股間が熱くなる。彼は仰向けになる。マッサージ師が揉んでいる。こんな女なんか、基子とは比べものにはならない。体も乳房も尻も丸い。肉付きはいいが肥っているというのではない。皮膚がひどく柔い。その辺が他の女とは違っていた。 「ダブルにしますか」  とマッサージ師が言った。シングルは四十分、ダブルは八十分になる。 「ダブルでたのむ」  と言った。たとえ指に力がなくても揉まれているというのは気持ちのいいものだ。このところ忙しかったし、寝台特急に乗っているのも疲れるものだ。揉まれながら、これでよく眠れそうな気がしてくる。  翌日、午前十時フロントに立った。チェックアウトする。佐世保に行くには、どういう方法があるかと聞く。佐世保までバスが出ている。二階建てバスで、観光客がよく乗るのだという。もちろん大村線の列車はある。  少し変ったところでは、長崎空港までバスかタクシーで行き、空港から佐世保桟橋まで高速船が走っていると教えてくれた。そう言えば長崎空港は大村湾の中の島である。高速船はオランダ村を経て西海橋の下を通る。  英太郎はオランダ村も西海橋も知らなかった。ときには船もいいものだ。彼は長崎空港までタクシーで行くことにした。列車もバスも、船も時間はあまり変らないという。  タクシーを呼んでもらい、長崎空港に向かう。佐世保で一人会わねばならない人がいるが、これは約束が四時半、佐世保駅だから、時間はたっぷりある。  タクシーで空港に向かいながら、英太郎は、十一年前に死んだ妹|泰美《やすみ》を思い出していた。女も男も、相手にのめり込むとろくなことにはならない。泰美は男にのめり込み、妊娠した。今日、佐世保で会う人物は、泰美と関りがある。  なぜ佐世保なのかは考えていなかった。相手が佐世保と指定したのだ。英太郎のスケジュールに合わせたのだと軽く思っていた。だったら長崎でも博多でもよかったのだが。  もっとも、寝台特急『さくら』は、長崎と佐世保から出て、肥前山口という駅で一緒になる。同じ『さくら』であることには変りないのだ。  佐世保で乗車券を買う。そこで博多のホテルで待っている基子に連絡すればいいのだ。ホテルはチェックアウトして、ロビーで待っているように言ってある。 「馬鹿な女だ」  と呟いてみる。泰美のことである。男と女は命賭けで惚れるものではない。たのしみだけでつき合えば、お互いに傷つかずにすむ。彼はこれまで女たちとは、そういうつきあい方をして来た。のめり込んで来ようとする女もたしかにいたが、女がそういう気配を向けてくると、彼は拒否した。女にブレーキをかけてやる。  英太郎に女は必要ではあるが、女で失敗したくはない。だから女には用心深くなっている。女を口説きもするが説得もする。だから女には甘い言葉は吐かない。結婚を期待するのなら別の男を求めるんだな、とはっきり言ってやる。それが女のためでもあるのだ。  真柄基子は、そういう心配のない女でもあった。愛というならば、接触の愛である。亭主が単身赴任からもどってくれば、もとの家庭にもどっていく女でもあるのだ。  女をそのようにあつかえなかった泰美の男に腹が立ってくる。泰美を妊娠させ、そして命賭けにのめり込ませた男が憎い。泰美がそうなる前にどうして手を打たなかったのか。女をのめり込ませてしまう男には、女をたのしむ資格はないのだ。英太郎はそう思う。  長崎空港に着いた。空港ビルの右端に、高速船乗り場がある。そこには十数人の観光客が船を待っていた。オランダ村に行く人たちだろう。三十分ほどで、次の船があるという。     2  九月九日、水曜日——。 『寝台特急「さくら」殺人事件捜査本部』が東京・丸の内署に設置された。その捜査本部に、警視庁捜査一課から、平栗良三《へぐりりようぞう》ら六人の刑事が参加した。本部長は、丸の内署署長、捜査主任には田沢警部が坐った。  小銭徳次殺害の件で捜査本部の設置を迷っていた丸の内署と警視庁は、赤座加津子の事件で、徳次の事故死を否定し、他殺と断定して、赤座の事件も加えて、捜査本部設置を決めた、とマスコミに発表した。  蝮毒殺と『さくら』から消えた死体と、マスコミは、新聞・テレビで報道した。マスコミが騒がないわけはない。  この日午前十時から捜査本部は、第一回の捜査会議をもった。徳山署から、弾丸、拳銃、手袋などの証拠品、銃弾の条痕などの資料が届けられ、広島署、徳山署は事実上、事件から手を引いた形になった。事件発生は、移動する列車内でもあるし、被害者、加害者ともに東京の人間と思われ、小銭徳次との関連も予測されたためである。  会議ではまず事実確認である。これははじめから捜査に当っていた平栗刑事が、一時間ほどもかけて説明した。  小銭徳次は、蝮毒死という事故ではなく、蝮毒殺であったこと。徳次は精神安定剤を常用していたが、解剖の結果検出されたのは、即効性のチクロパンという睡眠薬であったこと。犯人は、被害者が精神安定剤を使っていたことを知らず、チクロパンを注入した。これは、蝮毒を注入し、毒が全身に回るころ、寝台内で騒ぐのを防ぐためである。そのため下寝台にいた赤座加津子は、夢にうなされていると思った。  赤座加津子は、犯人に頼まれて、京都から乗り込み、犯人と交代したとみられている。だが、赤座は上寝台で殺人が行われたということを全く知らなかったと思われる。そこで赤座の向い席にいた西乃ときの証言が問題となる。赤座と交代したとみられる女は、上品な美女、三十歳前後。  小銭徳次は、福岡・宗像《むなかた》に両親の墓を立てたがっていた。大金が入る予定だったようだ。ということは、徳次が誰かを恐喝していた可能性がある。  赤座加津子が殺された(まだ死体は出ていないが)件については、彼女は小銭徳次が殺されたことを知り、上品な美女を恐喝した疑いがある。それが殺害された動機と思えること。  小銭徳次殺害では、全く犯人の遺留品がないこと、寝台周辺からは指紋も出なかった。  赤座加津子殺害の現場からは、いくつかの遺留品が出ている。弾丸、拳銃、女ものの片方だけの手袋など。弾丸は照合の結果、前歴がないこと。  加津子の座席に残されたメモ紙片からは、加津子本人の指紋だけ、文字は左手で書かれたらしいこと。また、加津子は八月二十八日と二十九日、長崎グランドホテルに宿泊したと言っていたので、ホテルを調べてみると、赤座加津子の宿泊者カードがあり、その文字も左手で書かれたもので、メモの文字と似ていること。この二つの文字は、犯人が書いたものと思われる。  また、九月七日の下り『さくら』の一号車二号車の乗客二十四人の名簿がコピーされて捜査員たちに渡された。名簿の中に犯人の氏名があるかどうかは、まだ不明である。 「何か質問があればどうぞ」  説明を終えて、平栗は椅子に坐った。  捜査は、小銭、赤座二人の周辺の聞き込みからはじめられる。田沢主任は三十数人の捜査員の一人一人にそれを命じた。また乗客名簿を一人一人当り、消去していかなければならない。  小銭徳次と赤座加津子については、知っている限りのことを説明した。もちろんポケット拳銃についても聞き込みが行われる。 「平栗くん、きみと同行した小銭亨《こぜにきよう》について説明してくれ」  田沢主任が言った。 「小銭亨は、被害者小銭徳次の息子で、ぼくの大学法学部時代の友人で、いまは新宿の『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』で調査員の仕事をしています。身長一七五センチ、空手三段、司法試験を八回滑っています。ぼくと同じ三十一歳。亨は、団地で小銭徳次と二人暮しでした。嫁いでいる妹が一人います」  別の捜査員が椅子を立った。 「平栗さんは、長崎グランドホテルに行かれたそうですが、二泊した赤座と九月七日の『さくら』に乗った赤座とは別人とお考えですか」 「別人だと思っています。赤座加津子は長崎には行っていません。西乃ときさん、そして、ホテルの支配人の証言などで、赤座とは別人と思っています」 「すると、今度の赤座殺しの犯人は、例の上品な美女とお考えですか」 「まだ、何の証拠も出ていませんが、ぼくはそう考えています」 「小銭、赤座殺しの動機については」 「まだ推測ですが、小銭は誰かを恐喝したために殺され、赤座は小銭殺しをほのめかせ、大金を要求した、その辺が動機と考えています。あるいは、別に動機があるのかもしれませんが、いまのところはということです」  小銭殺し、赤座殺しの状況はくわしく説明した。どうして赤座の死体が消失したかはまだわからない。 「この名簿の二十四人の中に犯人がいるかもしれないという根拠は? 犯人が二号車の後、つまり三号車から十二号車までの間に去ったということは、考えられないのですか」  捜査主任の背後の黒板には、十二輛の列車配置が書かれていた。 「ぼくは、二号車、つまりA寝台の13番上段にいました。下段にいた小銭亨は眠っていたようですが。ぼくの前を犯人が死体をかかえて通ったとは思えません。それで一号車二号車に限定しました」  田沢主任が手を上げ発言した。 「平栗くん、きみはベッドに横になっていて、カーテンを引いていた。つまり通路を見ていたわけではない。犯人が足音を消して、三号車に移ったと考えられないことはないと思うけどね。列車の震動音もある。きみは疲れて眠りかけていたのではないのかね」 「いいえ眠ってはいません。眠るときには小銭亨と交代するはずでしたから」 「そこは、きみ自身にしかわからないことだ。二十四人に限定することは危険だ。三号車以降の列車に犯人が移ったとすれば、死体消失も説明がつく」 「その可能性がないとは言いきれませんが」 「午前二時前後、この時間にトイレに起きる人は少い。三号車から十二号車までの間、食堂車も含めて、空いた座席なりに死体と犯人が隠れていたと考えられなくはない。一号車と二号車に限定して調べたのは、手ぬかりだったかもしれないな。そう考えなければ、死体消失の謎は解けないことになる」 「すると、二十四人の名簿は無駄ということになりますか」  別の捜査員が聞いた。 「無駄とまでは言わない。一応の捜査はしてみなければならんだろう」  平栗は黙した。言われてみればその通りである。  あのとき、腹這いになりカーテンをめくって通路を見ているのに疲れ、岡山と広島は列車が止まらないと思い込んでいたため、徳山に着くまでは事件が起きるはずはないと思っていた。それで仰向けになった。小銭亨は素人である。交代で眠ることに決めてもいたのだ。眠っていたわけではない。だがカーテンは閉めていた。目の前を犯人が通らなかったとは言えない。  大阪から徳山まで六時間ほどある。岡山に列車が止って亨が起きた。そして気になって赤座の席を覗きに行った。あのとき亨が赤座を確かめに行かなければ、事件の発見はもっと遅れていただろう。平栗の張込みの失敗といえるかもしれない。  列車が岡山に止ったことと、死体消失は関係があるのだろうか、と思ってみる。運転停車は、運転手が交代するためだけの停車で、十二車輛のドアはどこも開かない。外へ運び出すわけにはいかない。とすると、犯人と死体は、後の車輛に隠されていた、と考えるしかなくなるのか。  主任は捜査の担当を決め、本部長である署長が、会議を締めくくった。 「われわれは、小銭徳次の事件でも判断をあやまち出遅れている。そのつもりで捜査にかかってもらいたい」  会議はお開きになり、捜査員たちはざわざわと去っていく。  平栗は部屋を出たところで、肩を叩かれた。そばに秋庭《あきば》刑事が立っていた。彼はこの秋庭と組むことになっている。 「平栗さん、おれはあんたの勘を信じているよ。犯人は二十四人の中にいる。あんたのやり方は間違っていなかった」 「ありがとう」  だが、捜査はいろんな可能性を考えていかなければならない。     3  会議が解散になったあと、捜査本部に東京駅から電話があった。この日の『さくら』の寝台にまた一つの死体が発見されたというのだ。署内は騒然となった。本部長、捜査主任を加え、十人ほどの刑事が、鑑識と共に東京駅に駆けつけた。 『さくら』内における三人目の被害者ということになる。捜査本部の看板には連続という二文字を書き加えなければならなくなった。  寝台特急『さくら』は東京駅9番線ホームに止っていた。もちろん乗客はみんな降りてしまったあとである。死体は一番前の十二号車3下席にあった。  松本車掌は、列車が東京駅に着く寸前、新橋あたりと思われるころ、車内を見回っていた。十二号車まで来て、3番と4番の上下四つの席がカーテンが引かれたままになっているのに気付き、カーテンをめくった。3下席に男が一人横たわっていることに気付き、眠っているものだと思い、男の肩に手をかけてゆすった。  東京駅まで眠ったままの客もときにはいるのだ。むかしの三段ベッドならば、名古屋あたりで、作業員が乗り込んで来て、ベッドを座席に直す。だが、二段ベッドになってからは、寝台がそのままカーテンを開くだけで座席になるので、東京まで手は入らない。上段の客がいるときは、下段に坐る権利があるので、寝たままというわけにはいかないが、お盆、暮れ、正月といったラッシュ時以外はたいてい上段の席は空いたままである。  死体はまだ、寝台に横たわったままだった。殺害現場ではあるが、長く保存するわけにはいかない。さっそく現場検証がはじまる。そして、遺体は、一応ホーム下の霊安室に移される。  平栗も秋庭も、ちょうど丸の内署に居合わせたので、現場に駆けつけた。暫定的に、死亡推定時間は、十六時間から十八時間前とされた。もちろん死体は冷えきっている。だが、出血はどこにも見られない。薬品による中毒死だろう。とりあえずは、司法解剖のために病院に運ばれる。  被害者が持っていた名刺、手帳などから、百木英太郎と思われた。百木は、公民党委員長神崎八重の私設秘書である。さっそく百木の家族に連絡が取られた。  百木は、佐世保から東京まで、博多から東京までの二枚の乗車券を持っていた。一枚は百木が横たわっていた3下席、これは佐世保からのもの、博多からの乗車券は向いの4下席のものである。博多から誰か乗ってくることになっていたようだ。佐世保からのものには検札印が入っているが、博多からのものには検札印はなかった。  刑事七、八人が松本車掌を囲んだ。証人はこの車掌だけである。主任車掌ともう一人の車掌もその場にいた。主任車掌ともう一人の車掌は、長崎からの『さくら』に乗ってくる。松本車掌だけが佐世保からの『さくら』に乗る。そして肥前山口で長崎と佐世保からの列車が連結されるのだ。 「検札はどこでしたんですか」  田沢主任が聞く。 「佐世保からの乗客は、佐世保を発車する前に車内改札をやります。途中乗り込んでくる乗客は、たしか佐賀をすぎてからだったと思います」  車内改札という。いまは検札とは言わないようだ。 「被害者を憶えていますか」 「憶えています。佐世保駅で停車中の車内改札を行いましたから」 「そのときのことを思い出して下さい」 「女性がご一緒だったと思います。二十七、八歳ですか、わりに美しい方で、この方は入場券でした。見送りの方だったと思います」 「博多から乗るはずだった人ではないんですね」 「そのときには、博多からの乗車券はお見せになりませんでしたので」 「その女性のことをできるだけお聞きしたいのですが」 「くわしくと申されましても、それだけです」 「入場券ならば、その女性は佐世保で降りたんですね」 「そうだと思います」  質問が続く。そのあと松本車掌が車内見回りに来たときには、席のカーテンは閉じられていた。それがどこいらあたりだったかはわからない。もちろん東京へ着くまでの間に、三人の車掌は、何度か車内を見回ることになる。  主任車掌が、声をかけた。 「実は、博多から、妙なお客が乗って来ました。人を探しているようでした。八号車でしたが、この車輛に連れが乗っているはずだけどというんです。車内放送でお呼びいたしますから、お名前をどうぞ、とお聞きしましたが、その女性は、妙にあわてて、いいんですといい、八号車の空いた席を販売しました」 「女性? とすると博多からの百木の連れということになりますか」 「それにしては妙ですね、どういう女性でしたか」 「三十四、五歳ですか、わりに丸っぽい感じの女性で、人妻風、身長は一五七、八センチというところでしょうか。途中、下関あたりでしたか、お連れはみつかりませんか、と声をかけましたが、首を振っていました」  田沢主任たちは、またお聞きすることがあるときにはよろしく、と言って東京駅を出た。  百木の遺体は監察医務院に運ばれ、駆けつけた妻と百木の弟というのが、百木英太郎であることを確認した。英太郎は仕事で長崎に行くと言って出かけているが、佐世保に回るとは聞いていないと言った。  解剖の結果、小銭徳次と同じように、睡眠薬と蝮毒が検出されたが、彼の尻にあった青い浮腫は、徳次のものより大きく、そして、針のあとは一ヵ所だけだった。蝮毒の量は徳次よりも多かったようだ。犯人は、徳次のように二ヵ所刺して、蝮に咬《か》まれたように見せるのは無駄だと知っていたようだ。もちろん捜査班も、徳次のときのようにぬかりはない。  百木英太郎の身辺に、二人の女の影が現われた。博多から乗った女は、体格的に赤座加津子とは似ていない。犯人は佐世保駅の女だろう。その女は、今回は松本車掌が見ている。松本車掌を呼んでモンタージュを作ることからはじめなければならない。その女は、赤座加津子の周辺にいた上品な美女に似ている。同一人物と考えていいだろう。  すると人妻風の三十女は何者なのか。捜査班は、百木英太郎の身辺を洗いはじめた。  翌十日、捜査本部に、吉祥寺署から連絡が入った。井の頭公園の池の中から、女性の死体が出た。それを解剖したところ、体内から二発の銃弾が出た。その銃弾が22口径だったところから、『さくら』殺人事件捜査本部に連絡が入ったのである。捜査員が吉祥寺署にとび、赤座|誠史《たかふみ》と加津子の姉が呼ばれた。遺体は赤座加津子と確認された。  そして、赤座加津子の体内から出た二発の銃弾と『さくら』二号車のトイレから発見された銃弾は、条痕検査の結果、同一拳銃、つまりS&W社製M61エスコートから発射されたものとわかった。加津子は三発の弾丸を射ち込まれ、その一発が体を貫通したものということになった。     4  小銭亨は、渋谷のバア『アモーレ』に入った。地下への階段を降り、ドアを押すと、中はわりに広いパブになっている。ドアを入って店内を見回していると、むこうの隅で手を上げる女がいる。沢田|佳子《よしこ》である。ソファが長くのびている。その隅にいた。テーブルを前にして並んで坐る。わりに明るい店である。暗い店というのは流行《はや》らなくなっている。 「しばらくね、亨」  と佳子が言った。 「ちょっと忙しかったものでね」 「もう何ヵ月も会っていないような気がする」 「そうだな」  ベルトに差した扇子を手にする。そしてそれを開いたり閉じたり、いまは癖のようになっている。 「暑くもないのに、そんなもの年寄みたい」  と佳子が扇子をとる。暑い間は団扇《うちわ》を持って歩いていた。徳次が死んでからは遺品の扇子になったのだ。  ボトルはキープしてある。そのボトルのウイスキーで、自分で水割りを作る。そして、佳子のグラスと触れ合わせる。 「お父さまの件どうなったの」 「まだわからないよ」  徳次の死は彼女にも電話で知らせておいた。そういえば、佳子とは二週間ほど会っていなかった。彼女は会社の友だちと海へ二度行ったはずだ。一杯目の水割りを空け、二杯目を作る。  今日、佳子の会社に何となく電話した。そして、この店で会うことにしたのだ。 「新しく恋人でもできたんじゃないの」 「あたし、そんな浮気っぽくないわ。亨さんがいればいいの」  昨日、平栗刑事から電話があり、『さくら』で百木英太郎という男の死体がみつかり、赤座加津子の死体も井の頭公園の池の中からみつかった、と知らせて来た。亨は、それをずっと考えていた。  百木英太郎が、どのように事件に関係してくるのか、『さくら』から消えた赤座加津子の死体がどうして井の頭公園の池に沈んでいたのか。三人が殺された。寝台特急『さくら』の中でである。百木英太郎は公民党委員長神崎八重の秘書だったという。父徳次が百木英太郎と関りがあったはずはない。神崎八重はときどき新聞やテレビで見て知ってはいる。もちろん個人的なつながりは、何もない。  徳次、赤座加津子、百木英太郎、この三人はどういうつながりがあるのだ。三人とも『さくら』車内で殺された。徳次と百木は蝮毒死である。また、三人とも同一犯人に殺された可能性がある。  捜査本部では被害者二人の身辺を調べ、その共通項を探そうとするだろう。徳次は六十二歳の停年失業者、赤座加津子は三十歳の主婦、百木英太郎は代議士秘書で四十五歳。社会的立場は三人ともばらばらである。三人が揃って過去に殺されるような悪事を働いたというのではない。徳次は赤座も百木も知らなかったはずである。赤座も百木も同様だろう。  百木の近くに、上品な美女が姿を見せている。車掌の一人がその女を見たということで、そのモンタージュが作られていると、平栗が言っていた。『さくら』の中で徳次を殺したのもその女のようだ。姿は見ていないが、赤座を殺したのも、おそらくはその女だろう。  亨は平栗と共に長崎まで行った。長崎で降りた客の中にその女の条件に合った人物がいたように思う。二十四人の名簿は車掌たちに頼んだ。だからその女の名前は亨にはわからないし、記憶もはっきりしない。 「亨、いきましょうか」 「どこへ」 「あたしのアパート、アパートで呑んだほうが安あがりよ」  そうだな、と同意した。椅子を立ってレジで勘定を払う。階段を先に上っていく佳子の腰のあたりを見ていた。この女は抱かれたがっているのかな、と思う。男と女の関係になって二年ほどが経っている。彼女のアパートにもときどき行く。あまり馴れ合いにはなりたくない。  渋谷から、京王帝都井の頭線の電車に乗った。佳子のアパートは浜田山にある。駅から歩いて十五分のところ。十五分歩くのはかなりの距離だ。  徳次が蝮毒で殺されたのは意外だったが、赤座加津子がポケット拳銃で殺されたのも更に意外だった。亨の住む世界には拳銃なんて兇器は縁がない。犯人はどこで拳銃を手に入れたのか。亨はモデルガンにも興味がない。だからM61エスコートなんて名称もはじめて耳にした。 『さくら』内で赤座を殺そうと思えば、その上に犯人が上品な美女だとすれば、兇器はやはりポケット拳銃が最もふさわしいものだったのかもしれない。赤座加津子には、毒は使えなかった。刃物も刺す前に抵抗され騒がれるだろう。確実に殺すには、やはり拳銃しかなかった。加津子は銃口を向けられて目を剥《む》いただろう。その驚愕と恐怖が目に見えるようだ。その顔を松田昭子という女が見ている。彼女は声もあげずに射たれて死んだ。  だが、どうして三人とも『さくら』で殺されなければならなかったのか、それはどうしてもわからない。『さくら』でなければならない何かがあるのだろう。また、『さくら』で殺された加津子が、なぜ井の頭公園に運ばれ、捨てられたのか。  彼女が死んだと思われるのは岡山に近いあたりだったはずだ。それがどうして井の頭公園に?  アパートの階段を上る。作りは新しいが金をかけたアパートではない。右端の部屋のドアを開ける。佳子が先に入って灯りをつけた。六畳一間にキッチンとトイレ、それに電話ボックスに似たシャワー室がついている。バスルームまで付ける余裕はなかったのだろう。若い女性はバスよりもシャワーのほうを好むのか。  この部屋代だけで佳子の給料の半分はもっていかれるのではないかと思う。 「ねえ、先にシャワーを浴びる?」  女の部屋にはあまり来たくない、亨が住んでいる団地にもあまり連れて来たくない、といってラブホテルでは金がかかる。安くあげるには、やはり佳子のアパートということになる。途中ウイスキーのボトルを一本買って来た。佳子は食べるものの材料を買った。こんな小市民的な生活も悪くはないのだが。  シャワーを浴びてちゃぶ台の前に坐る。佳子が氷の入った容器とグラスを持って来て、台の上に置く。 「先にのんでいて」  佳子はシャワー室に入る。脱衣場なんてものはないから、中に入って脱いだ下着を丸めて外に出す。彼はそれをぼんやり見ていた。  グラスに氷片を入れ、ウイスキーを注ぎ、キッチンからコップに水道の水を入れて持ってくるとその水で割る。女の部屋というのは何となくくすぐったい。臭覚は敏感ではないので、女の匂いというのはわからないが、カーテンやいくつかの家具類は女のものである。  佳子が裸身にバスタオルを巻きつけた姿で出てくると、下着をつけはじめる。六畳一間だから隠れるところはない。何となく見ているのが残酷な気がして目を窓に向けた。佳子の部屋に来たのはまずかったな、と思う。女とは生活と離れた部分でつき合うべきなのだ。どうせならラブホテルに誘うべきだった。といって、いまさら帰るとはいえない。  佳子がパジャマ姿でちゃぶ台の向いに坐る。 「暑いわね」  と手をさし出した。扇子を渡す。衿《えり》を開いてそこから扇子の風を送り込む。 「いつもは、下着姿なのよ、暑いから」  亨は水割りを作ってやる。 「居心地悪そうね」 「何となくね」 「亨は、体のわりにはデリケートなのね」 「そうでもないけどね」  亨は、佳子のために水割りを作ってやる。 「やっぱり、ここへ誘ってはいけなかったわ、あたしの甘えだったかしら」 「いいさ、ときには」  佳子は、扇子を開いたり閉じたりしている。お互いにラブホテルのほうが大胆になれる。体を探り合い重ねるのが目的の場だからである。この部屋は、佳子の生活の場なのだ。 「あら、神崎雅比古、人の名前じゃないの」  はじめは、佳子が何を言っているのかわからなかった。 「こっちは、秋坂梅、これも人の名前かしら」  佳子は扇子を見ている。亨は手をのばして扇子をとった。そして開いた。   紳綺雌北枯   祥峡鴉頃胡   狄仮悔   移塀楠   礫投転刹  五行の文字を一つ二つと折る。すると、 『紳綺雌北枯』  の偏《へん》が隠れてしまい、次の、 『祥峡鴉頃胡』  の旁《つくり》が消えて偏が残る。つまり二行の文字を重ねると、 『神崎雅比古』  となる。次の二行、 『狄仮悔 移塀楠』  を合わせると、 『秋坂梅』  になった。亨は何かどきんとした。 『神崎雅比古 秋坂梅』  この二つは人名だろう。あとの一行は、 『礫投転刹』  は合わせようがないが、礫投の偏を削り、転刹の旁を削って、樂殳の旁に車の偏をくっつけると、 『轢殺』  になる。すると、 『神崎雅比古 秋坂梅 轢殺』  となる。  神崎雅比古、と呟いてみて、何か記憶の中で蠢《うごめ》いた。『さくら』で殺された百木英太郎は公民党委員長、神崎八重の秘書だった。秋坂梅には思い当るものがない。  神崎八重と神崎雅比古は関係あるのか。姓が同じだ。 「待てよ、この文章は、神崎雅比古は、秋坂梅に轢《ひ》き殺された。そうじゃないな、神崎雅比古が秋坂梅を轢き殺した」 「亨、何のことなの」 「ちょっと、電話帳を持って来てくれないか」  佳子は立って、厚い電話帳を持って来た。 「神崎雅比古というのを探してくれ」 「ジンザキね」 「違う、コウザキだ。神崎八重だった」  亨は、扇子を開いたり閉じたりする。紳綺雌北枯では全く意味がわからなかった。それが扇子をたたむことによって、神崎雅比古の名前が出て来た。  平栗は、扇子の文字を徳次のダイイングメッセージかもしれないと言った。いまはたしかにダイイングメッセージに見えて来た。このメッセージは、いろいろ考えてみるほど難しいものではなかった。マジックのネタは、わかってしまえば簡単なもの、扇子の機能ということを考えれば、もっと早く思い至ってよかったはずなのだ。  神崎雅比古は、神崎八重とつながっているのか、八重の夫か、あるいは兄弟か。 「神崎雅比古、あったわ、世田谷区の砧《きぬた》よ」 「世田谷の砧?」  佳子が、ボールペンとメモ用紙を持って来た。それに電話番号を写し取る。電話機を持ってくる。プッシュホンである。受話器を把《と》り、ナンバーを押す。途中で受話器を置いた。 「どうしたの」 「おれ、興奮している」 「あたしが掛けようか、何と言えばいいの」 「そのほうがいいかもしれないな。おれの名前は出さないほうがいい。公民党の委員長神崎八重との関係を聞くんだ」 「いいわ」  と佳子は数字をプッシュした。呼び出し音が鳴っている。チンと鳴って繋《つな》がった。 「もしもし、わたし沢田と申します。神崎雅比古さん、いらっしゃいますか」 「まだ、雅比古さまはお帰りになっていませんけど、どちらの沢田さまでございましょうか」 「わたし、公民党の党員ですけど、雅比古さんは、委員長の神崎八重さんの」 「お坊ちゃまでございますが」 「そうでしたか、有難うございました」  相手が何か言いかけるのに電話を切った。女は見掛けによらず大胆なものだ。 「雅比古は、神崎八重の息子だった」 「秋坂梅は、秋坂うめ、お婆さんじゃないかしら」  電話に出たのは、神崎家のお手伝いだろう。  亨は煙草を咥《くわ》えて火をつけた。佳子が小さなガラスの灰皿を持ってくる。 「次に何をすればいい? 秋坂うめを探してみようか」 「ちょっと呑もうよ」  グラスを口に運ぶ。 「妙なことになって来た」  亨は煙草の煙りを吐き、水割りをのみながら、自分の頭を整理するつもりもあって、赤座加津子と百木英太郎が殺されたことを喋った。  神崎雅比古が秋坂うめという老婆を轢《ひ》き殺した。徳次はそれを目撃したのか。それで、神崎雅比古を恐喝した。理屈としては合ってくる。だけど、犯人の影は女である。  佳子はしきりに電話帳のページをめくっている。 「秋坂うめ、というのはないわ、お婆さんじゃ電話は持っていないわね」  交通事故! だけど、どこで事故があったのかはわからない。徳次が目撃したとすればどこだろう。 「秋坂啓治、秋坂弘二、秋坂信子、三つあるわ、秋坂弘二は成城よ」 「成城?」  八月二十四日、徳次は古い友だちの野沢泰介を尋ねている。この野沢の住いは成城だった。そのあと亨も野沢を訪れた。  佳子がナンバーを押している。 「秋坂さんのお宅でしょうか、うめさんというお婆さんいらっしゃいますか、えっ、亡くなった? いつのことですか、八月二十四日? 病気ですか、豪雨の日に外で転んで? いいえ、うちのお婆ちゃんが、うめさんのことをときどき噂していたものですから」  女というのはいろんな発想ができるものなのか、佳子は受話器を置いた。 「うめさんは、交通事故ではないみたいよ。雨の中で、滑って転んで頭を打ったんですって」  野沢泰介は、徳次が帰ったあと、凄い豪雨になったと言っていた。徳次はその雨の中で何かを見たのだ。それが徳次には轢き殺したように見えた。秋坂うめが、どのように死んだかは、警察で調べればわかるだろう。たとえ事故死でも記録は残っている。  亨は、受話器を把り、平栗の自宅のナンバーを押した。平栗は家に帰っていた。 「平栗、オヤジのダイイングメッセージがわかった」 「なんだって」  平栗も手帳に五行の文字を写しとっている。ちょっと待て、と言った。手帳を取りに行ったのだろう。もどって来た平栗に、偏《へん》と旁《つくり》を説明する。 「神崎雅比古は秋坂うめを轢き殺した。神崎雅比古は神崎八重の息子だった。秋坂うめは八月二十四日に事故死している。いま電話で確かめた。明日、世田谷署で確かめてくれ」 「すると、神崎雅比古と親父さんが繋《つな》がったということか」 「そういうことになるな」 「今日はもう動けないな。明日、丸の内署に来てくれないか」 「そうしよう」  ということで受話器を置いた。  相手が神崎八重の息子では、簡単には手を出せないだろう。外堀を埋め、確かな証拠を手に入れなければならない。法は平等だが、相手の社会的立場によって、警察の応じ方も異ってくるのだ。  亨は、ふっと息をつき、佳子を見た。彼女は笑っている。この女を見直さなければならない。傍目《おかめ》八目という。囲碁も当事者よりも、傍《はた》から見ていたほうがよく見える。扇子の文字も、そこに何かあるとみつめすぎると何も見えなくなる。無造作に見て佳子には見えたのだ。徳次は何もむつかしいことを考えたのではなかった。  だが、一つの謎が解けたということだけで、神崎雅比古が、三つの殺人事件にどう関ってくるのかは、まだわからない。徳次は轢き殺されたと書いているが、被害者の秋坂うめの家族は、豪雨のとき滑って転び頭を打ったと言っている。警察でそう断定しているのだ。どういうことなのか。たとえ、車で撥《は》ねたとしても、雅比古が三人もの人を殺すとは思えない。豪雨の中の交通事故であれば情状酌量もあるだろう。轢き逃げしたことで、徳次にゆすられたのか。  徳次を思い出してみる。人をゆするような男ではなかった。両親の墓を立てたいために魔が差《さ》したのだろう。  六章 保険金殺人     1  神崎《こうざき》商事は西銀座にある。八階建てのビルである。三階までは商店やレストラン、喫茶店に貸している。四階から上を会社で使っていた。  神崎雅比古《まさひこ》は、五階の専務室に浮かない顔でいた。妙に落ちつかない。 「石田くん、お茶をくれないか」  秘書の石田陽子にそう言い、机から立ってソファに坐る。煙草を咥《くわ》え火をつけた。  さっき、二人の刑事が帰ったばかりである。受付から、丸の内署の刑事二人がお目にかかりたいと言ってみえていますが、と電話があったときには、ドキリと心臓が収縮した。いずれは来るだろう、と予期はしていた。  彼も、三人が殺されたことは知っていた。はじめに小銭徳次が殺され、次に赤座加津子という女が『さくら』の中から消えた。その死体が井の頭公園の池に沈んでいたことも、新聞で読んだ。三人目は母八重の秘書をしていた百木英太郎が『さくら』の中で死体でみつかっている。  はじめ、刑事は、秋坂うめという老婆の死から聞いて来た。心臓が口からとび出しそうになるのをこらえながら、冷静を装って、知らないで押し通した。刑事二人は彼の顔色をみようと目を炯《ひか》らせている。  秋坂うめについては何の証拠もないはずだった。目撃者とみられる小銭徳次は死んでいる。轢《ひ》き殺したわけではないし、車は老婆に触れてもいない。秋坂うめの死は変死あつかいだから、行政解剖されたのだろう。体には打撲のあともなかった。だから警察では、事故死ですませた。  だが、小銭徳次を殺すことはなかった。小銭は遠慮しながらも五百万円を要求して来た。五百万円を渡してやればよかったのだ。もっとも、雅比古は小銭との交渉はすべて見城美樹にまかせた。そして小銭徳次は殺されたのである。 「あたしは、そんなことしないわ」  と美樹は言った。だが雅比古は美樹が殺したのだろう、と思っている。都合よく他の誰かが小銭徳次を殺してくれるわけはない。  殺人は大罪である。たった五百万円の金で殺しをやったのでは合わない。美樹はなぜ小銭を殺したのか、彼女の気持ちがわからない。だからと言って美樹を責めるわけにもいかないではないか。美樹が殺したのなら、彼女は雅比古のためにやったのである。  それでいて、美樹にはわずかの蔭もないのだ。いつものようにいつもの顔で彼と一緒に酒をのみ、そして彼に抱かれる。女は男とは違ったものを持っている。違う生きものかもしれないと思う。理解の外にある。  雅比古ならば、人を殺して平気ではいられない。毎日が落ちつかず苦しみ悩み、そしてその苦悩に耐えきれなくなって自首するだろうと思う。人を殺して平然としていられる人間が信じられないのだ。  小銭徳次を殺したのが美樹でないとする。すると誰が一体小銭を殺したのか、そんなことは雅比古には考えられない。  二人目の赤座加津子については、雅比古は一面識もないし、名前すら聞いたこともない。刑事は、小銭徳次殺しに利用された女だと言った。美樹が赤座を雇ったのか。その赤座は口を封じるために殺された。赤座は犯人を恐喝したのだ、と刑事は言った。そのために殺された。  三人目の百木英太郎はよく知っている。母八重の秘書になって十年ほど経つ。雅比古は野心家の百木が好きではなかった。精力的な男で、母のために走り回っている。百木を見ていると秘書の多忙さがよくわかる。百木は八重の期待によく応えていた。その百木が殺された。これもなぜ殺されたのかは、彼にはわからないことだった。  百木英太郎は、八重のあとを継いで衆議院議員に立候補する気だった。たしかに彼はパワーもあり図太さもあって政治家むきの男だった。  だが、八重は長男の達彦に神崎商事を継がせ、雅比古を政治家にしたがっていた。雅比古としては、兄が会社を継ぐのであれば、副社長か専務の地位で満足だと思っている。百木英太郎が政治家になりたいのだったらなればいい。雅比古のライバルではなかった。彼には野心というものはない。自分では向上心はないと思っている。だが百木にしてみれば雅比古は大きなライバルなのだ。三ヵ月ほど前だったか、百木は言った。 「雅比古さん、あなたは性格的に政治家はむりですよ。政界というのは化け物の世界でしてね、雅比古さんには耐えられない」  そして暗に、委員長に自分を推挙してくれるように、と言った。雅比古は笑って、相手にしなかった。だが、美樹も雅比古に八重のあとを継いで政治家になって欲しいと考えているようだ。すると、ライバルを除くために、美樹が百木を殺したということになるのか。 「雅比古さん、ぼくはあなたの味方ですよ」  百木がそう言った言葉が耳の底に残っている。彼は政治家になるために生きて来た男だった。そこに執念を燃やしていた。八重の力がなくても百木英太郎は、代議士になれた男だったと思う。殺されて、さぞ無念だっただろう。  刑事二人は、雅比古のアリバイを聞いた。八月三十一日、九月一日のアリバイ、これは小銭徳次殺害のアリバイである。次が九月七日の夕方から、八日にかけてのアリバイ、これは赤座加津子が『さくら』から消えたときのアリバイ。三つ目は、九月八日と九日のアリバイである。百木英太郎は、九月八日の上り『さくら』の中で殺されている。  雅比古のスケジュールは、秘書の石田陽子が知っていた。彼はその三件ともに、幸いにアリバイがあった。もちろんアリバイの点では心配していなかった。三件の殺人には全くタッチしていないのだから。  だが、警察はすぐに見城美樹に目をつけるだろう。美樹は、八月三十日と八月三十一日は東京にいなかった。また九月五日から八日までの四日間、美樹は長崎県の平戸から佐世保、長崎を回ってくると言っていたし、その間東京にいなかったのは確かである。赤座加津子と百木英太郎は、九月の七日、八日の二日間に殺されている。美樹は三件の殺人にアリバイがないことになる。  石田陽子が濃いお茶を淹《い》れて来た。舌が痺《しび》れるようなお茶が好きなのを知っているのだ。つきあいで珈琲をのむことはあるが、珈琲はそれほど好きにはなれない。 「いくらなんでも、美樹が三人の人を殺すわけがない」  殺すわけがない、だが、美樹の行動は不審だらけである。来年の十月には美樹と結婚するつもりでいる。雅比古は再婚だから、結婚式は内輪だけですませるつもりでいた。だが美樹が殺人者ならば結婚どころではなくなる。 「美樹は、そんな愚かな女ではない」  と思うが、美樹の動きは殺された三人に向かっている。殺したという証拠がないだけなのだ。  小銭徳次と百木英太郎は、蝮毒で殺されたという。蝮毒をどこから手に入れたのか。雅比古は蝮毒と聞いただけで身震いがする。蛇というのは子供のころから受けつけなかった。蛇が目の前を横切っただけで、彼は心臓が縮み上り、しばらくは動けなかった。最も苦手な生きものが蛇だった。  いつか見たテレビで、毒蛇の毒を抽出しているシーンを見たことがある。蛇の頭を掴みコップの縁に牙を押しつけると、蛇は牙の先から粘い油のような透明な液をたらたらと流していた。蛇毒はわりに簡単に採取できるものだなと思った。だが美樹にそんなことができるのだろうか。蝮は北海道から九州までどこにでもいるという。蝮毒を誰かに分けてもらったとすれば、その人も共犯ということになるだろう。  そういえば、美樹は長野県松本の生まれだった。もしかしたら、美樹も蝮をあつかえるのかもしれない。江戸末期から明治にかけて蛇使いという見世物があったのをものの本で読んだことがあるが、蛇使いはたいていは女である。女でなければ見世物にならなかったからだろうが、女というのは先天的に蛇が怖ろしくないのかもしれない、と思ったりしてみる。     2  東城大学は、小田急線沿線、柿生《かきお》という駅から十数分歩いたところにある。このあたりは江戸時代から柿の木が多かったところだという。それで柿生という地名がある。  東城大学のグラウンドの隅に、小銭亨《こぜにきよう》は坐っていた。古いブロックが積んであり、それがちょうど坐れる高さなのだ。そのあたりには夏草が茂っていた。グラウンドでは、ラグビー部員たちが一個のボールを中心にして走り回っていた。  亨は平栗《へぐり》刑事と一緒に、西銀座にある神崎商事を訪ね、神崎雅比古に会った。その前に世田谷署で、秋坂うめの事故死について調べた。神崎雅比古が秋坂うめを轢《ひ》いたという証拠は何もないし、雅比古もそれを否定した。否定されれば何も言えない。 「考えられることは、風圧だな。ふつうの状態でも、車がスピードを出して通れば、はねとばされることがある。まして、豪雨だったとすれば、水しぶきが上るだろう。秋坂うめは、その水しぶきにとばされて倒れた。それをおまえの親父さんは見ていたのかもしれない。駅のホームに立っていて通過電車でも入ってくると、とばされそうになる。あれだよ。おそらくそれだろうな。だから親父さんには、神崎の車が婆さんを轢いたように見えた」  平栗はそういう風に説明した。 「車体には何の傷も残らない。婆さんに触れたわけではないのだからな」 「そういうのは罪にならないのか」 「ならないわけはないだろう。その車と婆さんの間には因果関係がある。婆さんのそばを車が通らなければ、婆さんは倒れなかったろうし、コンクリートで頭を打つことはなかった。だが、その因果関係を証明できないんだ。神崎の車がその時刻に現場を通ったかもしれないが、その証拠がない。他の車かもしれない、あるいは、婆さんはただ豪雨の中で足を滑らせて転んだだけかもしれないのだ。証明できないことは、何もなかったことと同じになる。親父さんの証言でもあれば、それを神崎が認めるしかないわけだ」  平栗の説明を思い出す。そして、専務室の神崎雅比古の様子を思い浮かべてみた。神崎はしきりにつっ張っていたが、顔には怯《おび》えを滲《にじ》ませていた。もう少し責めれば白状しただろう。だが、雅比古にはアリバイがあった。捜査本部の刑事たちがその裏を取っている。おそらく神崎は父徳次を殺していない。この男は、殺すよりも金で結着をつけようとするだろう。そう思えた。たとえ自分を守るためでも、人を殺せるような男ではない。  神崎雅比古の周囲を調べてみると、すぐに見城美樹《けんじようみき》という女が出て来た。彼女は東城大学の国文科の助手をしていて雅比古の婚約者だという。  それで亨は東城大学にやって来た。学生課を通じて、見城美樹に面会を求めた。彼女はいま、学生に講義をしているという。助手という立場で講師でもあるらしい。二十八歳と聞いた。年齢的には赤座加津子に近い。  亨は、煙草を咥《くわ》え、火をつけようとして、校舎のほうに女の姿が浮かんだのを見た。グラウンドは一段低くなっている。女は石段を降りてくる。彼は煙草を箱にもどし、近づいてくる女を待った。その女の体つきを赤座加津子と比べていた。スリムだから女としてはわりに背が高く見えるが、加津子のほうが骨太に思えた。  佐賀の西乃ときが言った上品な美女というのを思い出していた。たしかに歩き方も姿も品がある。この女が三人を殺した犯人なのか。亨のイメージとしてはどこか違っていた。俗にいう美人タイプという女は、亨は嫌いだった。もちろんこの際、好き嫌いは問題ではないのだ。  女はまっすぐ亨に向かって歩いてくる。歩き方にぎこちなさも怯えもなかった。 「見城美樹ですけど」 「お忙しいところ、申しわけありません」 「刑事さんかしら」 「いいえ、小銭亨、小銭徳次の息子です」 「ああ」  と頷いた。亨は彼女の変化をみようとした。だが顔色に変化はみられなかった。目立つ顔ではないが、よく見ると目鼻立ちは品よく整っていた。背丈は違うが、同窓の津知田涼子《つちだりようこ》と持っているムードが似ていた。頭の隅で沢田佳子と比べていた。女の容姿にランクがあるとすれば、佳子とはずいぶん差がある。美樹は知的でさえある。 「あたしには、あなたのお父さんを殺したという容疑がかけられているのですわね。そのことで会いにいらしたんでしょう」  彼女には神崎雅比古と違って、全く動揺はないし、亨に対して構えてもいない。それでいて、亨を冷めたく突き放すという様子もなかった。 「刑事さんが、あたしのところに来ました。あたしのアリバイを聞いていったけど、はっきりしたアリバイはないの」  美樹は白い歯を見せて笑った。清潔な笑顔である。彼女のアリバイを聞いていったのは、平栗ではなく他の刑事である。 「小銭さんは、今日はお忙しいのかしら」 「いいえ、いまのところは暇ですけど」 「でしたら、少しつき合っていただけるかしら」 「いいですよ」 「よかった、じゃ、ここで少し待って下さる」  美樹はそう言って、まるではしゃぐように小走りに去っていく。妙な女だ、と思う。亨は美樹の反応さえ見ればよかったのだ。徳次を殺した女なら、自分にいい顔はしないだろう、と思っていたのだ。それとも彼女に何か企《たくら》みがあるのか。  亨は、改めて煙草に火をつけた。二本の煙草を靴で踏みにじったころ、美樹は姿を見せた。ハイヒールをはいている。さっきはサンダルだった。ハイヒールの分だけ高くなっているし、形のいい脚が目立った。  柿生まで歩いて小田急線電車で新宿へ出る。新宿駅前通りを伊勢丹の方向へ歩く。亨の連れとしては似合わない女だ。美樹はまるで恋人とでも歩いているように楽しそうだ。一体何を企んでいるのか。 「小銭さんは、雅比古とは全く違うタイプの男性ね」 「ほめられているんじゃないですね」 「いいえ、ほめているのよ、逞しいし、ボクシングでもやっていらしたの」 「空手を少し」 「すると喧嘩はお強いわね」 「喧嘩が強くても、メシのタネにはなりませんよ。喧嘩に強いというのはコンプレックスの一つです」 「逆説的なのね」 「暴力団にでも入れば生活できるんでしょうけど」 「面白い方ね」  彼女は白い歯を見せる。笑顔に自信があるのだろう。  伊勢丹の先の信号を渡る。左へ折れてしばらく歩いたビルに入った。亨のアジトになっている『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』はすぐ近くである。エレベーターで八階に上る。そこは会員制クラブの入口になっていた。美樹がカードを差し込むとドアが開いた。 『エスカイヤー』、店の中には、バニーガールたちが歩き回っている。奥の席に案内された。四人掛けの席にテーブルに向い合って坐る。もちろん、こんな店ははじめてだ。目のやり場に困る。バニーたちのむき出しの長い足と、肩から乳房の半分ほどのぞいた白い肌。 「水割りでいいわね」  亨は頷いた。バニーがそばのジュータンに坐って水割りをつくる。料理は美樹が適当にたのんでくれた。グラスを合わせる。 「小銭さんって、男っぽい人ね」 「なぜ、ぼくを誘ったんですか」 「あら、いけなかった? 一緒にお酒のみたかったからよ。それにあなただって、あたしがどんな女か知りたいでしょう。もちろん、あなたに興味がなければお誘いしないわ」 「ぼくに、興味があるんですか」 「あたしが、あなたのお父さんを殺したと思っていらっしゃるの」 「それは、まだわかりませんね。アリバイがないんでしょう」 「あたしのアリバイについては、捜査本部では調べているんでしょう」 「自信がおありのようですね」  アリバイがないと言いながら、アリバイには自信があるのだ。まだ明白なことはわからないが、父徳次が殺されたのだから、むかしなら不倶戴天《ふぐたいてん》の敵ということになる。その敵と向い合って酒をのむ。妙な気分だ。  亨は、美樹に扇子《せんす》をさし出した。彼女はそれを開いてみる。 「父の遺品です」 「これ、漢詩なの」  美樹は国文科の助手であり講師でもある。亨は扇子をとりもどし、途中を折って、再び彼女にさし出した。 「ああ、雅比古さんの名前なの」 「神崎さんは、秋坂うめさんを轢《ひ》き殺した。それをオヤジが見ていた。それでオヤジは神崎さんを恫喝《どうかつ》した。違いますか」 「でも、証拠は何もないでしょう」 「オヤジは殺された。因果関係はあると思うんですけど」 「小銭さんは、お父さんの仇を取りたいの」  美樹はほとんど感じていない顔をしている。 「そう言われても困るけど」 「お父さんには、他に事情があったんじゃないの」 「他の事情?」  そんなこと考えてもみないことだった。考えられもしない。父徳次に、別に殺される事情があったということか。 「見城さんは、何かご存知なんですか」 「あたしが、何も知るわけないでしょう」  空になったグラスにバニーガールが来て水割りを作る。 「あたしは、あなたのお父さんを殺してなんかいないわ。あたしがどんなに厚顔無恥でも、殺した人の息子さんをお酒に誘うわけないでしょう」  言われてみればその通りだ。この女は一体何を考えているのだろう。アリバイの完璧さを誇りたいのか。 「あたしと雅比古さんのところに刑事が来たのは、この扇子があったからなのね」  たしかに、徳次が扇子を残さなければ、徳次と、彼女との繋《つな》がりはなかなかみつからなかっただろう。美樹は、どうして刑事たちが自分のところへ来たのか、その理由を知りたかったのかもしれない。何かを知るために、あるいは探るために、亨をこのクラブへ誘ったのだ。だが、それだけだろうか。 「犯人は、小銭徳次さんがこんなものを残していたとは思わなかったでしょうね。でも見当違いよ。どうせこの秋坂うめさんの事故死も調べたんでしょうから。あたしも雅比古さんも関係ないのよ。新聞にだってお婆さんは自分で転んで頭を打ったと書いてあったのよ」 「しかし、オヤジは?」 「たとえ、お父さんがその光景を目撃していたとしてもよ、たいした罪にはならないわ。相手が訴えたとしても、保険会社ですんでしまうことだわ。それくらいのことで、どうしてお父さんを殺してしまわなければならないの。小さな罪を隠すために、大きな殺人という罪を犯すなんてバカげているわ」  美樹の言う通りだ。轢《ひ》き逃げしたとしても罪を比べてみると、殺人の罰のほうが大きすぎる。徳次が金を脅し取ろうとしたのなら、逆に訴えたってよかったはずだ。 「もう一つ、たとえ、雅比古さんのお母さんが公民党の委員長だとしてもよ。すぐ殺人に走るほど、雅比古さんもあたしも単純じゃないわ」  罪と罰の軽重ということがあった。交通事故を隠すために殺人をするというのは馬鹿げている。しかも、雅比古の場合、裁判になったとしても有罪になるかどうかわからないのだ。 「小銭さん、あたしは殺人鬼じゃないわ。雅比古さんにはアリバイがあるわ。あたしにはないかもしれない。だけどアリバイなんて、いざとなると、たいていの人はないはずよ。アリバイを気にして生活している人なんているわけないでしょう。アリバイがないからというだけで、その人を犯罪者にすることはできないわ」  理論的である。すると徳次が残した扇子は何だったのか。 「もちろん、警察はあたしと雅比古さんのことを追及するわね、捜査本部の捜査が行き詰まっているとすれば、他に容疑者が出て来ないとすれば」  美樹は喋りながらも穏やかな顔をしていた。自信たっぷりなのだ。言う通り、容疑者として浮んでいるのは神崎雅比古だけだ。三人の被害者の後ろに女の影がちらちらしているというので、この美樹にまで容疑が向けられている。 「違ったのかな」  と亨は呟いた。  影の女に会った人が一人いる。寝台特急『さくら』の松本車掌だ。もちろん、捜査本部は松本車掌に面通しさせるだろう。  もう一つ、九月七日の『さくら』の一、二号車の乗客二十四人の名簿の中に見城美樹の名前はなかったし、亨も長崎に着くまで、車内を歩き回った。車内に美樹がいれば、彼の記憶にも残っているはずである。 「だけど、ぼくには女性というのがわからないですね」 「わからないとおっしゃるほど、女性を数多く知っていらっしゃるの」 「それほどもてませんよ」 「男の人はよく言うわ、女性は知れば知るほどわからなくなるって」 「男のほうが単純なのかな」 「そうじゃないわ、女のほうが単純なの。単純だから、かえってわからなくなるのね。女ってそんなに深いものじゃないわ」 「あなたは、どうしてぼくを誘ったんですか、神崎さんは婚約者でしょう」 「婚約者がいても、夫がいても、そんなこと関係ないでしょう」 「だけど、ぼくと酒をのんでは、神崎さんは不快じゃないのかな」 「そんな男じゃないわ。小銭さんに比べると気が小さくて臆病で、喧嘩なんてできない人だけど、大人よ。あたしの私生活に干渉なんかしないわ」 「そんなものかな」 「あたしは、あたしの知らないタイプの男のひとには興味があるの。小銭さんはあたしの周囲にはいないタイプよ」 「野人ということですか」 「野人と言ってもいろいろだけど、あなたにはデリカシーがあるわ、無知な野人じゃないわ。あたし、あなたが喧嘩するところを見てみたい」  亨は思わず笑った。 「そうやたらに喧嘩するわけじゃありませんよ。ぼくの腕は兇器とみなされているんです。有段者は名簿に載っていますからね、ボクシングをやった人でも」 「でも、男の喧嘩って魅力的だわ、雅比古さんなら、一方的に殴られるだけでしょうけど」 「人を殴れば刑務所いきですよ」 「それでも、小銭さんの喧嘩を見てみたい」 「むりでしょうね」  話が妙な方向にずれて来た。     3  丸の内署の捜査本部には、田沢主任と五人の刑事が残っていた。みんなで三十四人いる捜査員たちのうち、五人を除いて聞き込みに回っていた。  神崎雅比古のアリバイの裏はとれた。もともと捜査本部としても、雅比古に容疑を向けていたわけではない。犯人は女だと思われていた。  女となると、まず目についたのが雅比古の婚約者である見城美樹ということになる。上品な美女という条件にぴったりする。ハイヒールをはくと一七〇センチ以上になる。  雅比古は、三つの事件ともにアリバイがあった。だが、見城美樹は前の二件が明白ではない。三件目にはアリバイがあるようだ。  美樹の身辺が調べられた。美樹の生まれから育ちまで。容疑者の一人で、しかもいまのところは、他に容疑者は出ていない。二人の刑事が彼女が生まれた長野県松本に出張している。  松本になら蝮がいてもおかしくないし、美樹が蝮となじんでいたかどうかである。二件に蝮毒が使われている。蝮毒の供給者が別にいるのかもしれない。また美樹の交友関係も調べることにした。  もちろん、三人の被害者、小銭徳次、赤座加津子、百木英太郎の身辺捜査もである。  次に、美樹のアリバイ捜査ということになる。いまのところは、美樹を参考人として呼ぶだけの材料が集っていなかった。公民党委員長神崎八重につながる女性だけに、田沢主任も慎重になっていた。  第一の小銭徳次殺し——。  九月一日、火曜日、小銭徳次が蝮毒を注入されたと思われるのは、寝台特急『さくら』が京都に着く前だったと思われる。  京都で犯人は降り、代りに赤座加津子が乗り込んで来た。二人の服装は同じだったものと思われる。犯人の座席の前に坐っていた佐賀の西乃ときの目を誤魔化すには、服装は同じでなければならない。また背丈もほぼ同じようでなければならない。それでも西乃ときは誤魔化されなかった。はっきりとはしないが別人だったと思った。  京都で降りた犯人が美樹だったとすれば、どうなるのか。美樹は当日の午前十時すぎには東城大学に登校していた。これには何人かのはっきりした証人がいる。 『さくら』は東京駅に一一時二六分に着く。一見アリバイはあるように思える。京都で降りたのなら、後の列車ということになる。だが新幹線というものがある。 『さくら』が京都に着くのは五時五分。時刻表に新幹線を探す。新大阪始発の新幹線は午前六時ちょうど、京都が六時一七分。美樹がこれに乗るには一時間以上余裕がある。つまり一時間以上遅れて京都を出ても途中で『さくら』を追い抜き、東京着八時五六分。東京駅から中央線電車に乗り、新宿で小田急線電車急行に乗り換え、途中、新百合ケ丘で各駅停車に乗り換え柿生で降り、歩いて大学までも数分。刑事二人がこのコースを試乗してみたら、大学に着いたのは一〇時七分すぎだった。  この事件については、美樹のアリバイはないということになった。アリバイがないからすぐ犯人と決めつけるわけにはいかない。  第二の赤座加津子殺し——。  赤座は、九月七日の『さくら』に乗った。この列車には平栗刑事と小銭亨が乗っていた。赤座が二号車トイレで血を流し、一発の22口径弾丸を残して列車から姿を消したのは、列車が運転停車した岡山の近くで、八日の午前二時前後と思われている。  だが、ドアの開かない『さくら』からどうして消えたかは、まだ解明されていない。そして九月十日の朝八時すぎに、井の頭公園の池の中に沈んでいた赤座の死体が発見され、解剖の結果、体内から二発の弾丸が摘出された。赤座は、八日の午前二時ころ、心臓及びその近くに三発を射ち込まれ、そのときに死亡したものと断定された。  この井の頭公園の近く、武蔵野市御殿山に『メゾン吉祥寺』があり、このマンションの三一七号室が見城美樹の住まいになっていた。彼女の乗用車はマンションの地下にあり、この車も調べられたが、赤座の遺体を運んだ痕跡はなかった。遺体がどのようにして『さくら』の外に運び出されたかは、まだわからないが、車で井の頭公園まで運ばれたはずだが、その車もまだ発見されていない。  見城美樹は、六日の『さくら』に乗って、平戸、佐世保、長崎を二泊三日で旅行して来たと言っている。平戸と長崎に泊った、そのホテルに電話で問い合わせてみたが、二ヵ所とも宿泊者カードに美樹の名前はなかった。  六日の『さくら』で佐世保まで行っているのなら、七日の赤座の乗った『さくら』には乗れない。空路、羽田にもどって来れば、どうなのかはまだ検討されてはいない。  平栗が時刻表で調べてみた。佐世保には一〇時二七分着、長崎には一〇時四〇分着。これから長崎空港に向かい、東京行き一四時二五分発、全日空664便に乗れば、羽田には一六時ちょうどに着く。 『さくら』は東京一六時四〇分発、東京は無理でも横浜一七時二分発には間に合う。羽田から横浜駅まではタクシーなら三十分で行ける。もちろん、六日の『さくら』に乗ったとしても途中下車すれば、当然、七日の『さくら』の時刻までには東京にもどれるはずだ。つまり、いまのところはアリバイはないということになる。  第三の百木英太郎殺し——。  百木英太郎は、六日の『さくら』に乗り、七日、長崎の料亭で地元の有力者と会い、神崎八重のパーティの打ち合わせをやり、『長崎グランドホテル』に泊ったことはわかっている。  佐世保で誰かと会う約束があったので、八日の午前中、佐世保へ向かっている。そして八日の『さくら』に佐世保から乗り込んだ。そして、二十七、八とみえる上品な美女が、松本車掌によって、百木と一緒にいたところを目撃されている。百木は死体となって『さくら』で東京まで運ばれた。解剖によって蝮毒が、佐世保駅に停車中に注射器ようのもので体に注入されたとみられている。  何のために、女と佐世保で会わなければならなかったのかは、まだわからない。女は百木のスケジュールに合わせて佐世保を指示したようだ。  その女は入場券で『さくら』に乗っていた。見送りに来て発車まで乗っていた、のではなく百木を殺すために乗っていたようだ。蝮毒を注入したあとは、列車を降りて改札口を出たのだろう。  別の問題だが、百木はもう一枚、博多から東京までの乗車券を持っていた。これは連れが博多から乗り込んでくるはずだったのだ。主任車掌の証言では、博多から人妻とみえる女が乗って来て、連れを探していたということだ。この女はどういうわけか乗る車輛を間違えたらしく、空座席を買って東京まで乗っている。  この百木殺しについて、見城美樹は、七日に長崎に泊り、八日に長崎空港に向かい、全日空666便、一八時二〇分発の飛行機に乗ったと言っている。これは長崎空港発の最終便で、羽田には一九時五五分に着く。  午後九時すぎに、美樹は東京・新宿の会員制クラブ『エスカイヤー』に現れたという証言があった。彼女の大学時代の友人、西郡亮子《にしごりりようこ》で、美樹は彼女とこの店で待ち合わせていた。証人は他にも店の支店長、ママなどがいる。  八日の『さくら』に、佐世保駅で百木と一緒にいたのが美樹だとすればどういうことになるのかが検討された。 『さくら』が一七時三〇分発、全日空666便が一八時二〇分発。この差は五十分間である。八日に美樹は長崎ではなく佐世保にいた。いや、長崎に一泊して佐世保に向かったとしてもよい。佐世保駅から、五十分足らずで長崎空港に着ければ、彼女のアリバイはないことになる。  刑事の一人が佐世保市の観光課と、長崎空港の観光案内に問い合わせたところ、佐世保駅から長崎空港までは、運がよくて一時間十分、悪ければ一時間三十分かかるということだった。  運がよければ、というのは、佐世保と空港までの途中にある早岐《はいき》周辺の交通事情にあるようだ。午後六時前後ということになれば、一時間十分では無理で、一時間三十分は考えなければならない。 「すると、四十分足りないことになるな」  田沢主任が言った。  空港では離陸二十分前までに搭乗手続きをすませて下さい、としている。少くとも十分前でギリギリだろう、となると、プラス十分で五十分足りないことになる。アリバイを作るためにどうしても666便に乗らなければならないとすれば、一時間十分か一時間三十分かわからないタクシーには乗れない。 「無理か、見城美樹のアリバイは成立か」  主任が肩を落した。  この666便に乗らないと、午後九時に、新宿に立つことはできない。     4 「主任、ぼくと秋庭《あきば》さんを佐世保へやってくれませんか」 「五十分の壁を破ってみせるというのかね」 「ぼくには、犯人は見城美樹より他にはないと思えるんです。その五十分には何かトリックがあるような気がするんです」  田沢主任は、煙草に火をつけ、しばらく考えていた。アルミの灰皿は吸殻で山盛りになっている。平栗刑事が別の灰皿を持って来て、灰皿を換えた。 「もう少し待ってくれ、少し情報を入れたい」 「五十分の壁を破れば、逮捕状は出なくても、参考人として呼べるでしょう」 「どうも、罠くさい。罠が仕掛けてあるような気がしてならない」 「罠とはどういうことですか」 「いや、それはいい、おれの勘だけだ。平栗くん、きみたちは名簿をもう少し洗ってくれ」  そう言われては、口応えするわけにもいかない。平栗は、秋庭刑事をうながして部屋を出た。  そのあとに、百木英太郎の周辺を聞き込んでいた刑事から電話があった。 「真柄基子《まがらもとこ》という女をつきとめました」 「何者だ」 「百木がもっていたもう一枚のキップの主です。真柄基子、三十三歳、百木とは愛人関係にあった人妻です。どういうわけか彼女は車輛を間違えたようです」 「どうして間違えたんだ」 「彼女は、百木の電話をホテルのロビーで受けたそうです。百木は佐世保駅で急いで電話したようですね。電話では一番後の車輛と言った。彼女は肥前山口で長崎からの『さくら』と佐世保からの『さくら』が連結されるのは知っていたようですが、駅員にどう繋《つな》がるのかと聞いたら、佐世保からのが前だと聞き、佐世保からの『さくら』後車輛八号車に乗ったんです」 「百木の死体は十二号車だったな」 「その通りです。佐世保線は早岐駅で先頭列車が逆になるのです。つまりVの字形に走る。佐世保駅での最後尾車は十二号車で、肥前山口からは先頭車輛になります」 「百木は、佐世保駅の改札口で、自分の乗る車輛を見て、十二号車とは言わずに、一番後の車輛とだけ電話で言ったんだな」 「その通りです」 「どうせ、十二号車に乗ったとしても、彼女は、百木の死体を発見しただけだろう。不倫の仲だったら、間違えてかえってよかったようだな」 「そう言っています」 「事件には関係なさそうだが、百木のことはよく聞いておいてくれ」  田沢はそこで受話器をもどした。  列車内の犯罪というのは、いろいろ面倒なことが多い。列車そのものを知らなければならないし、列車の構造も知っておかなければならない。  寝台車内では殺人が行われやすいというのも今回の事件の感想である。わずかカーテン一枚で、人の目をふさいでしまうし、それだけにカーテン一枚めくれば、そこに無防備で客が眠っている。列車にはどんな人間が乗っているかわからないのに、乗客は、まるでドアがロックされるホテルか自分の家で眠るように安心して眠っている。  列車に乗っているのが善人ばかりとは限らないのに、どうして眠れるのだろうか、と思う。むしろ座席車のほうが、大勢の目があるだけに安心かもしれない。それだからではないだろうけど、いまはドアがロックできる個室寝台車もあると聞いた。  車内の通路は一般通路と変らない。なのにカーテン一枚の内で眠る。寝台の中にいれば、カーテンの外を誰が通ってもわからない。  真柄基子という人妻は、長崎へ行く百木についていった。ところがホテルでは一緒ではなかった。基子は博多で降り、一人ホテルに泊り、帰りの『さくら』で一緒になる。一緒にいられるのは寝台車の中だけ、それでもついていったというのは。田沢はそこまで考えて唇の両端をゆがめた。楽しみは寝台の中にあった。  そういう情事もあったのだ。人妻がカーテン一枚外を誰が通るかわからないのに、カーテンは簡単にめくれる。当然寝台内には灯りをつけてのことだろう。 「女というのは、大胆なものだ」  何が起るかわからない、寝台車はそういう不思議さを持っている。だから魅力だという人もいるだろうし、カーテン一枚だから真柄基子は刺激があると思ったのか。  彼女は百木の死体を発見しないでよかった。死体を発見していたら? そう思っていまごろは冷汗をかいていることだろう。  田沢は、見城美樹の写真を一枚摘んで眺める。写真にも育ちのよさがうかがえる。こんな女が、蝮《まむし》を掴めるのだろうか、三人もの人を殺せるのだろうか。とてもそんな女には見えない。  彼女が犯人ならば、二人を蝮毒で殺し、一人を銃殺している。蝮毒はどうやって手に入れたのか。   あの声で蜥蜴《とかげ》食らうかほととぎす  という俳句がある。   この顔で蝮掴むか……  と言いたくなる。  机上の電話が鳴った。 「捜査本部、田沢」 「おかしなことがわかりましたよ」 「用件は早く言え」 「赤座加津子の夫|誠史《たかふみ》は、妻の加津子に六千五百万円の生命保険を掛けていました。受取人は誠史本人です」 「うむ」  と唸った。 「保険会社は三社です。二年前から保険金は払っています」 「二年前から」 「二十一ヵ月です」 「一ヵ月の保険金支払額は」 「四万五、六千円になるそうです」  六千五百万円、決して少い額ではないが、多いとも言えない。 「保険金殺人の疑いはありそうか」 「誠史の周りを洗ってみますか」 「たのむ」  受話器を置いて、 「おかしくなって来たな」  とひとりごちた。事件は複雑になってくるようだ。  小銭徳次の周辺を聞き込んでいた刑事が、何も出て来ないようです、と電話して来た。その刑事に赤座誠史のアリバイを洗うように命じた。  三つの殺人事件の中に、保険金殺人が絡んでいたのか。だが、その金額はどこか中途半端である。保険金を掛けて殺すのなら一億円以上か、だが六千五百万円だって大金である。赤座加津子の夫は競輪好きだと聞いていた。  二年間、保険金を注ぎ込んでいた。二年という期間はどうなのか、保険金を二、三ヵ月払って殺すとは限らないだろう。月に四万数千円の保険金は、サラリーマンには大きい。  保険金を払いながら、誠史は妻加津子を殺すチャンスを待っていた? すると、見城美樹は、赤座加津子は殺していない。  そうではない。美樹と誠史は共犯かもしれない。美樹が殺した加津子の死体を誠史が運んだ、ということも考えられる。  一時間後には、刑事が誠史に会い、アリバイを聞き、電話して来た。 「九月七日、赤座誠史は、ホテルに女といたと言っています。三十五歳になる人妻で、後藤|陽子《ようこ》だと言っています。二人がいたのは、五反田のビジネスホテルです」 「ホテルなら、チェックアウトの時間がわかるわけだな」 「そのホテルに行って調べてみますが、その後藤陽子とは七時半ころまでいた、と言っています」 「早いな」 「人妻ですからね、それでも三時間以上はホテルにいたそうです」 「わかった。その人妻とホテルを確めてくれ」  赤座加津子が乗った『さくら』の発車は一六時四〇分、四時四〇分である。七時半にホテルを出たとして、三時間以上も遅れていることになる。三時間以上遅れて、『さくら』に追いつく方法があるのか、あるとすれば新幹線だろう。  また時間との勝負、時刻表とのにらめっこになる。 「また、不倫か」  と田沢は顔をゆがめる。  もちろん、赤座誠史が妻加津子を殺したか、あるいは見城美樹との共犯であれば、アリバイは作っているだろう。  赤座加津子が、運転停車した岡山に着く前後に殺されて、その死体が『さくら』から消えた。そのときに小銭亨が、共犯者がいたようだ、と言ったという。加津子は体つきも大きいし、それだけ体重もあるだろう。その上に、松田昭子という五十女に見られている。早く仕事をすまさなければならない、となれば、見城美樹一人では無理だったのではないのか、と。小銭亨の考えは当っていたのかもしれない。  その共犯者は赤座誠史だったと考えれば納得できる。だが『さくら』から消えた死体の謎はまだ解けていない。消えたのだから、何か方法がなければならない。  その死体消失の謎も加えて、平栗を佐世保へやるべきだな、と田沢は思った。  七章 非常コック     1  新宿歌舞伎町のコマ劇場に近いあたりのビルの地下に、『薩摩っぽ』という酒場がある。十人ほど坐れるカウンターと奥に座敷があった。この店では鹿児島の料理を出し、焼酎のお湯割りをのませる。料理人もママも、素朴な鹿児島人で、客も鹿児島の人が多い。  小銭亨《こぜにきよう》は、この店のカウンターにいた。一人で呑むときには、よくこの店に来る。お湯割りの焼酎は酔いざめもいいし、気持ちよく酔えるのだ。それに安あがりでもある。  丸の内署の捜査本部の情報は、平栗《へぐり》刑事を通して、すべて亨の耳に入ってくる。  殺された赤座加津子には六千五百万の保険が掛けてあり、夫の誠史《たかふみ》のアリバイが調べられているという。また、寝台特急『さくら』の乗務員松本車掌は、見城美樹に面通しさせたが、佐世保駅の『さくら』列車内に百木英太郎と一緒にいた女が、美樹であるかどうかは確信がない、と言った。似ているようでもあり、似ていないようでもある、と曖昧だった。  もっとも、証言者は、よほどの確信がない限りは、「この女だ」と明確には言えないものだ。相手の運命を変えてしまうことだからだ。一度、それもほんの数秒会っただけの人の顔はよほど印象が強くない限り、それほど記憶には残らないものである。まして、『さくら』の女は、黒ぶちの眼鏡を掛けていた。美樹は眼鏡を掛けていない。  佐賀の西乃ときに美樹を会わせてみても同じだろうと思う。  亨は、一昨日、見城美樹に会員制クラブ『エスカイヤー』に連れていかれた。そこで、アリバイはとにかく、彼女は自分は殺していない、と言った。小銭徳次は殺さなければならないほどの存在ではなかった。徳次を殺すのに赤座を手伝わせ、そのあげくに赤座まで殺さなければならなくなるような愚かなことはしない。もちろん、神崎雅比古《こうざきまさひこ》の交通事故も否定した。  美樹は充分に理知的である。単純に行動するような女ではない。どこかに計算がなければならない。徳次を殺すのに、どうしても赤座の協力が必要だったわけではない。赤座を協力させる前に、協力させれば赤座が邪魔になることはわかっていたはずである。  すると、徳次の扇子《せんす》の文字は何だったのか、ということになる。徳次がただ思いつきで文字を書いたとは思えない。何の証拠もないが、徳次は、神崎雅比古の車が秋坂うめのそばを走り抜け、うめがその車の風圧にとばされ転んだのを見たのだろう。その車に美樹も同乗していたのかもしれない。八月二十四日月曜日、二人が箱根の別荘から帰宅したことは、捜査本部にはわかっている。豪雨の最中、雅比古の車が、秋坂うめが死んでいた現場近くを通りかかったであろうということも。  亨は、お湯割り焼酎を三度お代りして店を出た。まだ、終電車までには時間がある。まだ歌舞伎町のネオンは煌《きらめ》いている。が家路を急ぐ人が多く、ソープランドの客引きたちが道端に点々といる。このところソープランドの火も消えつつあるようだ。  歩く足がわずかによろめく。快く酔いが回っている。美樹の顔を思い浮かべていた。おかしな女である。興味があったから誘ったと言った。徳次を殺した女だとすれば怨恨と憎悪が湧いて来なければならない、が亨にはそんな感情はわずかもなかった。  前方から男が歩いてくるのは知っていた。ワイシャツにネクタイ、体つきは大きいが、サラリーマン風の男である。その男が自分を見ているのは知っていた。  男は歩いて来て、亨とすれ違った、と思ったとたんに顔面に衝撃を受けた。何が起ったのかわからない。目に火花が散り、鼻の奥にツーンと酸っぱいものが走った。腰が砕けて尻から落ちる。ただ、瞬間的に筋肉を収縮させたので頭をコンクリートに打ちつけなくてすんだ。  殴られたとは思わなかった。相手の拳は見えなかった。横たわったところに足蹴りが腹に来た。それも躱《かわ》しきれなかった。逆の方向から蹴りが頭にくる。頭を両手で抱き込んだ。  脳の中は白っぽくなりかけている。蹴りは腕を折った。体を回転させる、が状況はわからない。相手は一人ではない。  一年ほど前にKO強盗というのが新聞に出ていたのを思い出す。弱者に対していきなり殴りつけ、ノックアウトして強盗を働くものである。いきなり殴りつけられれば、弱者でなくてもひっくり返る。空手三段の亨だって同じだろう。殴られるかもしれない、と用心して歩いているわけではない。快く酔って隙だらけだったのだ。  蹴りが来るのが見えていた。蹴りを躱す代りに、その足に抱きついた。逃げていてはダメージを受けるばかり、逆に接近したほうがいい。野球で打球を受けるときのように、ショックを和《やわら》げる術《すべ》は身についていた。  その足を抱き込み、杖にして立ち上りながら、股間に拳を入れた。 「ギャッ!」  と頭の上で叫びを聞いた。男は両手で股間を抱きかかえる。当然、体は前かがみになる。亨は男の顔面に頭突きを喰わせた。わっ、と叫び男の体が崩れる。その間に腹や腰を何度か蹴られた。  亨は、くるりと男の背後に回り込んだ。楯にした男とあと二人いた。一発目のストレートは利《き》いた。そのショックはまだ足に残っている。少し時間を稼ぎたい。鼻の奥がむず痒いと思ったら、鼻血を流していた。  男を突きとばした。同時にフック気味に拳がのびてくる。それを躱《かわ》せないと知って、亨は正拳を突き出した。相打ちだった。亨の拳は少し遅れたが、相手の拳より亨の拳が強かった。そいつがよろめく、それを追って間をつめる。  拳を腹にめり込ませ、同時にアッパーを突き上げていた。まともに入った。男がのけ反り倒れる。次の男に対応するために横に移動した。男の体が前に泳ぐ。その腹に膝を当てた。次いで手刀を男の首筋に叩き込む。  膝が折れ、そこに四つん這いになる。その頭を蹴ろうとしたが、男にタックルされた。抱き合ったまま転がる。  拳で男の脇腹を続けざまに叩く。そいつがようやく離れた。立ち上って息をつく。男三人も息が上って、肩を喘《あえ》がせている。  亨には三人の他に人は見えなかった。通りがかった人たちが足を止めて見ているのがわかったのはその後である。  やっと態勢を挽回《ばんかい》できたと思った。いまなら三人を相手にしても負けない。真中の一人がポケットからナイフを出し、刃を立てた。 「逃げろ!」  と他の二人に言った。二人は頷き合って人垣を掻き分けて走り去る。ナイフの男と向い合った。亨はナイフの恐ろしさは知っている。動けない。男はナイフの使い方を知っているようだ。  ナイフは小さく動く。刀とか棒とかならば打ち降ろす軌道というものが見える。だから彼ならば躱せる。だがナイフには軌道がない。自在に動く。だから相手の癖がわからないと動けない。 「シュッ!」  と声をあげて男はナイフを振る。横に振り、下から上へアッパーカットのように斬り上げる。亨は間合いを測った。次に突いてくる。わずかに退いた。  男が顔をゆがめて笑った。素人ではない、といって暴力団ではなさそうだ。いったいどういうたぐいの男なのか。 「シュッ、シュッ」  と声をあげ、ナイフを振り牽制しておいて、つつっと退き、背を向けて走り出した。逃すつもりはない。亨はあとを追う。男を見失なわないよう、余裕を持って走る。  男は角を曲る。それを追うのに角すれすれではなく、大きく迂回する。曲ったところに待ち伏せているかもしれないからだ。  走りながら、見城美樹を思い出していた。美樹は亨が喧嘩するのを見たいと言った。もしかしたら弥次馬の中から見ていたのかもしれない。美樹を目で探すだけの余裕はなかった。  暗がりに逃げる男の影を透かしてみながら追う。三人の後ろにいる黒幕は美樹なのか。コマ劇場の裏に出た。ホテルやビルバアの多いところである。道を歩いている人たちが振り向く。その先は新大久保になる。  角を曲ったところで、男の姿が掻き消えた。どこかに潜んでいるのだ。亨は足をゆるめ、あたりをうかがいながら、歩く。いきなりとび出して来ても、応じられるように構えながら。耳を澄ます。男は息が上っているはずだ。近くの店にでもとび込んだのか。  隠れるところはいくらもある。車が路上駐車している。車のそばを通った。とたんに人影が動いた。男が逃げていく。それをまた追った。諦めることを知らない男である。弁護士|津知田涼子《つちだりようこ》が、亨のことを粘り強いと言った。こういう亨を知っているのだ。  すでに、亨が優位に立っていた。逃げる男はすでに喘いでいる。逃げる男との距離をつめた。男が振り向く。振り向いた分だけスピードは落ち、足もよろめく。  路地を曲った。亨は大きく回り込んだ。暗い中に、男は背中をブロック塀にぴたりと押しつけていた。闇の中にナイフの刃が白く光っていた。  喘いでいる男に、ゆっくり歩み寄る。 「もう、かんべんして下さいよ」  男は顔をひきつらせ、笑おうとしている。 「ぼくたちは、ただ、あなたを叩きのめせばよかったんですよ」 「誰にたのまれたんです」 「それはかんべんして下さい。男の顔が立ちません」 「男ですか」  亨は無造作に間を詰めた。男がギョッとなる。足をとばして向う脛《ずね》を蹴った。 「わっ」  と叫んでとび上る。彼は間をとった。少しずつ痛めつけていく。男の手首を蹴ってナイフをとばそうなんて考えない。格好はいいかもしれないが、格好つけようとしてナイフで足を裂かれた男がいる。 「頼んだ人の名前は言ってもらいますよ」 「許してくれませんか、小銭さんが強いのは充分にわかりましたよ」 「知っていることを、みんな喋ってもらうと助かるんですがね」 「ぼくは、何も知りませんよ」  と言いながら、男はまだナイフを構えている。ナイフも亨に通用しないことを知ったはずだ。 「時間はたっぷりありますよ」  間を詰めて足をとばした。足を蹴られると思って、足を引く。回し蹴りが側頭部に決った。男はよろめく。男の手首を掴むチャンスはあったが、そうはしなかった。すでに優位に立っている。無理することはないのだ。 「あなたの名前は」 「原田、原田|恒夫《つねお》、二十六歳」 「若いんですね。ナイフの使い方はうまい」 「小銭さんを知っていれば、引き受けませんでした」  亨が動いた。 「待って下さい」  原田が叫んだ。彼が動きを止めると、ナイフを折り畳んでポケットに入れた。 「白旗を上げます」 「誰にたのまれたのですか」 「あなたが考える人です」 「ぼくは何も考えていない」 「見城美樹さんです」  数秒、黙した。 「そう言えと言われたのですか」 「えっ?」  この男は嘘を言っている、と思った。そういう勘は働く。 「いいでしょう、行って下さい」  叩きのめして本音を聞くことはできる。だが、そこまでする必要はなかった。原田は少しずつ移動し、歩き出した。途中で一度振りむいた。そして闇の中に消えていった。     2  翌日、亨は東城大学に足を向けた。見城美樹に会おうと思ったのだが、美樹は来ていなかった。柿生駅にもどり、小田急線電車にのり、下北沢で井の頭線に乗り換えた。美樹のマンションに行ってみるつもりである。  電車の吊り革につかまって流れる窓外の景色に目をやる。  昨夜、原田恒夫という男と別れて団地にもどると電話のベルが鳴っていた。平栗刑事からだった。ずっと電話をかけていたんだぞ、と言った。 「一緒に、また『さくら』に乗らないか」  と言う。『さくら』から赤座加津子の死体が消えた謎も探りたいし、見城美樹のアリバイも崩したい、と言った。  本来、刑事の行動は二人組だが、出張費は一人分しか出ないという。それで亨を誘ったのだ。亨も津知田涼子からもらった金はまだ半分以上残っている。  明日の『さくら』に、横浜から乗ると約束した。団地からは東京駅へ出るよりも横浜のほうが近い。  井の頭線終点の吉祥寺で降りた。そして、公衆電話で美樹の部屋に電話を入れたが、呼出し音だけで誰も出ない。不在なのだろう。  時間をつぶすために井の頭公園に足を向けた。公園の中をぶらぶら歩き、池の畔《ほとり》のベンチに坐った。池にはボートが浮いている。この池の中に赤座加津子の死体が沈んでいた。  煙草を吸いながら、事件の推移を考えてみる。  神崎雅比古は、美樹と二人で箱根の別荘から帰る途中、成城のあたりで豪雨に遭い、豪雨の中を傘をさして車道を渡って来た秋坂うめを風圧と水しぶきで転がし死なしてしまう。  それを徳次が見ていて、雅比古に電話を入れる。徳次はこの事件が金になると考えた。その徳次との交渉に当ったのは美樹だろう。美樹は、徳次に東京—博多間の往復乗車券を渡し、金を渡すことを約束した。とにかく智恩寺に墓の予約だけはしてくるようにと。  帰りの『さくら』の座席の下段席も同時に買っておいた。博多から乗り込んで来た徳次は目の前の美樹には気付かず、上段の寝台に上る。おそらく美樹は変装していたのだろう。  徳次はいつものように精神安定剤をのんで眠る。美樹は大阪を過ぎたあたりで、徳次の体に即効性の睡眠薬を注入し、そのあとで蝮毒を二度注入した。蝮に咬《か》まれたように見せかけるために。  大阪より前では、もし徳次が苦しみ出したら逃げられない。大阪より京都で降りることにしたのは、新幹線に乗り換えるのに、大阪だと新大阪に移動するのが面倒だったため、名古屋では、東城大学に着くのが遅れてしまうため、やはり京都でなければならなかったのだ。  荷物、長崎で買ったみやげなどはそのまま残し、京都で体だけ赤座加津子と入れ換った。美樹は、赤座の名前で長崎グランドホテルで二泊している。  赤座と美樹のつながりはまだ不明である。  徳次の死が、事故死ですんでいれば、あとの殺人事件は起らなかったのか。赤座は、何も聞かされないで、ただ京都から『さくら』に乗り込むように頼まれた。そこに何百万かの金が動いているようだ。  赤座は徳次の死が殺人と聞かされ、殺人事件に利用されたことを知り、これは金になると考えた。加津子にそのように思わせたのは亨だった。  彼女は美樹を脅しにかかる。金を出さなければ、京都で入れ換ったことを喋ると。また美樹がどれくらいの金を出せるかを考えた。美樹のバックには神崎雅比古がいて、神崎商事がある。この金を五千万と考えてみよう。雅比古なら出せる。  美樹は「金は払う、だから九月七日の『さくら』に乗れ」と命じる。なぜ『さくら』に乗らないといけないのかは、彼女はわからなかったのだろうが、五千万円は魅力ある。相手が出すというのならいただきたい、が反面恐ろしくもある。それで亨に連絡した。  ところがこれには、夫の赤座|誠史《たかふみ》が絡んでいた。二年前から妻加津子に六千五百万円の生命保険を掛けていた。美樹はどうしてこれを知ったかはわからないが、誠史を共犯として引きずり込んだ。共犯といっても、お互いの利益になることである。誠史は美樹の話に乗ったものと思われる。もっとも美樹と誠史との関係もまだわかっていない。  美樹は、前もって『さくら』が岡山と広島で運転停車することを知っていた。これを利用して加津子の死体を車外へ運び出した。井の頭公園まで車で運んだのは、誠史に違いない。車は盗難車でも使ったのだろう。その辺の手段は、まだわかっていない。  百木英太郎の場合はどうなのか、雅比古は百木を味方だと思って、秋坂うめの件を相談した。百木は代議士になりたいという夢を持っていた。美樹の目的は代議士夫人である。二人の利害は相反する。百木が雅比古に、代議士になるのは諦めろ、諦めなければ秋坂うめの件を公表すると脅す。すると美樹は、百木をも消してしまいたい。老婆を殺したということを世間に知られては、雅比古はダメージを受ける。立候補しても当選はむつかしい。あるいは選挙地区に怪文書が出まわることにもなりかねない。  百木が長崎に行ったついでに、佐世保で会おうと呼び出す。その理由はいまのところわからないが、百木がよろこんで長崎から佐世保へ回る有効な理由があった。 『さくら』の発車、一七時三〇分までには、長崎から回って来ても四、五時間の余裕はあっただろう。美樹は女としても魅力がある。もしかしたら、彼女は自分の体を提供したのかもしれない。百木は女好きであった。博多から人妻を『さくら』に乗り込ませるほどに。また、佐世保で美樹とデートする予定があったので、人妻|真柄基子《まがらもとこ》を博多に置いていったとも考えられる。そうでなければ、長崎まで連れていって、ホテルで待たせておけばよかったはずである。  美樹は佐世保駅の『さくら』の中まで百木を送り、そこで徳次にしたときと同じように、隙を見て即効性の睡眠薬を注入する。百木は驚くだろうが美樹に掴みかかるだけの余裕はなく眠ってしまう。そのあと蝮毒を注入し、座席に横たえてカーテンを引き回しておけば、誰にも気付かれることはない。  博多で真柄基子が乗り込んで来て、百木の死体を発見したとしても、状況は変らなかった。  …………。  このように考えてみると、一応の筋書きだけは通る。捜査本部でも、このような筋を考えるだろう。無理のない流れのように思える。 「だが、違うのではないか」  亨はそんな気がするのだ。取りたてて矛盾があるわけではない。この筋立てに、どこかわからないが、すんなりと受け入れられないところがある。  美樹に、会員制クラブに連れていかれ、美樹が人殺しをした顔に見えなかったというのではない。心理学者ではないので、顔や目を見て、その心理まで知ることはできない。  また、昨夜の原田恒夫は、あっさりとではなかったが、見城美樹の名前を口にした。このことも、すんなりとは受け入れられないのだ。亨を叩きのめせと依頼した者に、いざとなったときには見城美樹の名前を出せといわれていた。  そういう気がしてならないのだ。自分の思い過しなのかな、と考える。  もう一つの思いは、三件ともなぜ『さくら』なのかである。それにはそれなりの理由がなければならない。徳次の智恩寺が福岡にあったからではないはずだ。百木が飛行機嫌いだったのは家族の証言でわかっている。前もって『さくら』で往復することがわかっていたのか。女と寝台列車に乗る趣味があったのか。もっとも赤座加津子は『さくら』に誘い込むことはできる。  もしかしたら、徳次と加津子殺しは同一犯人で百木殺しは別の事件なのか、そう考えるのは少し無理なようだ。共通項は『さくら』だけではなく、蝮毒がある。一連の連続殺人事件と考えるしかない。  果してそうなのか。前の二件の殺人を新聞かテレビで知って、一連の事件にみせかけるために、殺人現場を『さくら』にし、蝮毒を使ったと考えられないだろうか。  徳次を殺す動機はいまのところ、秋坂うめの事故死事件しか考えられない。息子の亨が考えてみても、他に徳次に殺される理由があったとは思えないのだ。加津子殺しは、徳次殺しに繋《つな》がっている。だが、百木殺しだけは別の動機のような気がしてくる。  そんな疑問があって、亨は美樹に会おうとしている。彼女は、交通事故そのものを否定しているし、それくらいのことで、あなたのお父さんを殺したりしないわ、とも言った。たしかに殺す動機にしては弱い。  たとえ殺すにしても、いきなり徳次を殺すのはおかしい。徳次はそれほど巨額を要求したわけではないだろう。墓を作るだけの金、二百万、多くても五百万程だろう。それくらい渡せた。そのあと二度、三度要求してくるようだったら、そのときに方法を考えてもよかったのではないのか。  殺すには早すぎた、亨だけではなく、捜査主任の田沢警部もそのような考えのようだ、と平栗が言っていた。     3  見城美樹が、三つの殺人事件に全く関係ないと考えてみたらどうだろう。そうなると、美樹の行動で納得できないことがあちこちに見えてくる。第一、第二の事件にはアリバイがない。  京都で降りて新幹線に乗り換え、間に合う時刻に大学に出ている。六日に旅行に出て、七日に平戸、八日に長崎に泊っていると言いながら、その証拠も証人もない。ただ第三の百木殺しだけアリバイがある。全日空の搭乗者名簿にはケンジョウミキの名前があった。捜査本部の調べである。平戸と長崎のホテルに見城美樹の名前がなくて、どうして飛行機にだけ名前があったのか。ケンジョウミキの名前があっても、美樹が必ず乗ったという証拠にはならない。美樹の名前を誰かが勝手に使ったとも考えられるのだ。  それでいて会員制クラブ『エスカイヤー』には、九時に現れている。友だちと待ち合わせていたといい、証人が何人かいる。  考えれば考えるほどわからなくなる。わからないのは美樹という女でもある。  それでいて、さまざまな様相は、美樹を指しているように見える。第一に徳次が遺した扇子《せんす》の文字がある。  亨は、煙草を消して立ち上った。公園を出て、公衆電話を探した。そして『メゾン吉祥寺』に電話して、呼出し音五つめで、電話はつながった。 「見城です」  と美樹の声がした。 「小銭ですが」  ああ、と美樹は笑った。 「あたし、いま帰ったの」 「お会いしたいのですが」 「いま、どちらなの」 「井の頭公園を出たところです」 「どうぞ、お待ちしているわ」  電話はむこうから切れた。マンションまで歩いて十五分ほどである。美樹は屈託がなかった。  三一七号室、三階までエレベーターで上った。廊下を歩く。廊下を曲って少し行ったところが三一七号室だった。チャイムを押す。待っていたようにドアが内から開いた。 「どうぞ、お上りになって」  靴を脱いで上る。広い部屋があった。ベッドがないところをみると、もう一部屋あるようだ。沢田佳子のアパートなど比べものにならないほど豪華だ。給料にこれほど違いがあるわけはない。美樹の松本の実家は資産家なのだ。 「その辺に坐ってちょうだい。あなたの武勇伝は聞いたわ、三人もかかって相手にならなかったそうね、見たかったわ」  亨はテーブルのそばにあるスツールに坐った。家具や三面鏡など入っていて、それでも広い空間がある。 「あたし、シャワーを浴びてくるわ、待っていてね」  と言ってバスルームに入る。いや、バスルームの前には衝立がある。その蔭が脱衣場になっているようだ。 「冷蔵庫の中に、飲みものが入っているわ、勝手にやってちょうだい」  声をかけ、次にバスルームのドアが開く音がした。亨は動かなかった。動けなかった。バスの中ではシャワーの音がしている。美樹は裸になっている。男の前でである。もっともその裸身は見えない。  バスローブを着て美樹が出て来た。ローブの下は素肌かもしれない。彼女は鏡台の前に坐ると、顔にクリームを塗りはじめた。頭にはビニールをかぶっている。ビニールの帽子をとると長い髪が肩まで垂れた。  聞きたいことはいくつもあるつもりで来たが、何も聞かなくていいような気がする。 「何か言いたいことがあるんでしょう」 「昨日の原田恒夫は、あなたに頼まれたと言いました」 「そうよ、あたしが頼んだのよ。原田が報告して来たわ」 「何者ですか」 「東城大学のOBよ、原田はボクシングをやっていたわ。二人はラグビーよ。三人は軽いみたいなこと言っていたけど、意気地がなかったようね」 「何のために」 「小銭さんがどれくらい強いか試してみたかったの」 「違うな」 「どう違うの」 「あなたは、三人を殺していない。平戸、長崎にも旅行していない」 「だったら、どういうことになるの」 「さあ、それを聞きたいと思って来たんだけど」  美樹は立って冷蔵庫から缶ビールを二個出してくると一個を亨に渡した。彼女はプルトップを抜くと、白い咽《のど》を鳴らしてビールをのみ、大きく息をついた。 「どう、小銭さんもシャワーでも浴びたら、誤解しないでね、あなたを誘っているわけではないの」  とびかかって、美樹をソファに押し倒したらどうなるだろう、と思う。誘っていないと言いながら、誘っているのではないのか。  美樹はモアを咥《くわ》えると銀製の細長いライターで火をつけた。白い指に茶色っぽい細巻きの煙草がよく似合っていた。 「あたしが、あなたのお父さん、赤座加津子、百木英太郎を殺したの」  先日の『エスカイヤー』でとは逆のことを言う。 「でも、何の証拠もないわね」 「あなたには、オヤジと赤座加津子の事件にはアリバイがない」 「それだけでは逮捕状は出ないわね」 「ほんとは、あなたにはちゃんとしたアリバイがある」 「どうして。アリバイがあるなら、そう言うわ」 「あなたは、ぼくをからかっている」 「あら、そんなことないわよ」  妙な女だな、と思う。妙なのだ、三つの殺人事件をゲームみたいに思っているところがある。 「あなたがオヤジを殺したのなら絞め殺す」 「そうなさったら。あたしはあなたに絞められたら、すぐに死ぬでしょうね」 「だけど、そういう気持ちになれない。あなたは誰も殺していないからだ」 「あたしが犯人でないとしたら、他に誰か容疑者でも出たの」 「捜査本部では、あなた以外の容疑者を探している」 「でも出て来ないの?」 「あなたを参考人で呼ぶだけの証拠もない」 「それはおかしいわね。百木英太郎についてだけはアリバイがあるけど、他はないのよ」 「あなたは、ぼくを含めた捜査本部をからかっているんだ」 「あたしが? そんな恐ろしいことできないわ」 「あなたは、赤座夫婦とはどういう関係ですか」 「黙秘権よ」  美樹はたのしそうに笑った。  亨は立ち上って、美樹の両肩を掴んだ。バスローブを剥《は》ぐことはできる。一瞬、彼女の顔が強張った。 「どうも、お邪魔しました」  背を向けた。玄関で靴をはく。ドアを開けて外に出た。     4  午後五時、亨は横浜駅のホームに立っていた。佐世保に行くのだから、列車の後方になる。  五時一分に列車が入ってくる。一分間停車で発車する。九号車のデッキに平栗刑事が立っていた。列車に乗り込む。亨は乗車券だけ買っていた。座席指定券は、平栗が二枚持っていた。5下席である。平栗は6下席で向い合わせになっている。 「これだけが、捜査本部のサービスだ」  指定券を受け取ってポケットに収める。 「これで三度目だな」  一度目は、佐賀まで行った。二度目は長崎まで、今度は佐世保である。 「見城美樹のアリバイは崩れそうか」 「崩してみせるさ。何かトリックがある。それに、赤座加津子が消えたトリックも解決しなければならない」  車掌が車内改札に来た。平栗がちらりと手帳を見せた。 「あとで、お話をうかがいたいんですが」 「わかりました。ずっとこの席にいらっしゃいますか」 「いや、食堂車にいるかもしれない」 「わかりました。どちらかですね」 「そういうことです」  車掌は、敬礼して去った。 「食堂車へ行こうか」 「まだ早いだろう。それより赤座|誠史《たかふみ》のアリバイはどうなった」 「崩れたよ」 「崩れた? 三時間以上も経ってから、この『さくら』に追いつけるのか」 「新幹線が京都で追いつく。京都に『さくら』は二二時五四分に着く、一分停車だがな」 「誠史の女は? 何と言ったっけ」 「後藤陽子、誠史は彼女と七時半ころまで一緒にいた、と言った。陽子に当ってみた。二人がいたのは五反田のラブホテルだった。彼女の住いは磯子のほうだ。彼女が別れたと言ったのは、品川駅で七時半だ。まっすぐ東京駅に行けば、新幹線ひかり313号に乗れる、二〇時ちょうどだ。ゆっくり間に合うだろう。この313号は、京都に二二時四五分に着く、京都で九分間ある」 「京都で『さくら』に乗り込んだのか、だったら何も岡山まで行くことはない」 「だが、まだ十一時前だ、人目もある。第一、その時刻だったら、おれもおまえも見逃さなかった。まだ次に大阪に停るからな」 「見城美樹も誠史も、岡山でなければならなかった。岡山でないとトリックは使えなかった。岡山に何か仕掛けがあったのだ」 「どういう仕掛けだ」 「それをつきとめるのはこれからだ」 「アリバイが崩れて、誠史は逮捕できないのか」 「アリバイがないだけでは、どうにもならんな、加津子を運んだとみられる車も発見できていない」 「車でなければ運べないわけか」 「そりゃそうだろう。まさか死体を列車や飛行機に乗せるわけにはいかん、加津子はバラバラになっていたわけではないのだからな。だが、必ず誠史が犯人だ」 「見城美樹が自分で運んだとは考えられんのか」 「共犯者がいると言ったのは、小銭、おまえだぞ」 「共犯者を作ると、また共犯者を殺さなければならなくなる。アリバイが崩れて誠史が逮捕されるようなことになれば、彼は見城美樹のことを喋るだろう」 「しかし、彼女が一人でやったと考えてみる。岡山駅は午前二時、九月八日だ。岡山から東京の井の頭公園まで運ばなければならない。八日の午後五時くらいには、佐世保で百木英太郎と会わなければならない。可能なのかな」 「岡山から東京まで、どれくらいかかるのかな、車で。だが八日の昼ごろには着けるだろう。すると、八日の午後に空路、長崎空港に向かう。可能じゃないかな」 「東京と岡山間は、どれくらい距離があるのかな」 「ちょっと待て」  亨はショルダーバッグの中から大型の時刻表を取り出した。 「距離まで載《の》っているのか」 「わからん、載っているかもしれん」  亨はページをめくりはじめた。その間、平栗は、通路の腰掛けをセットし、煙草を吸う。乗客たちも、まだ寝るのには早いらしく、お喋りしたり、何人かは通路に出て、窓外を眺めたり、煙草を吸ったりしている。五、六メートル離れて、ハイヒールの女が窓を向いて立っていた。二十七、八ほどか、近ごろは若い男だけでなく、女も背が高くなっている。もちろん、ハイヒールをはくと足も長く見え、プロポーションもよくなる。似ているというのではないが、その女に見城美樹を重ねてみた。  平栗も彼女には会っていた。細身のプロポーションのいい女である。女に限らず、人一人を殺すということは気力が充実していなければならないし、大量のエネルギーを必要とする。まして、美樹は三人も殺しているのだ。  刑事としての経験からして、殺人犯というのは独得の目つきをしている。人を殺すとまず目が変ってくるように思う。別の犯罪者とはまず目が異る。  美樹は多分にコケティッシュな目つきをしている。女として充実した年齢だろう。黒目がちで美しい目だ。穏やかな目つきだった。人を殺しておいて、あんな目でいられるのだろうか、といまになって思う。  だが、目つきだけではわからない。平栗には美樹が犯人でなければならなかった。あの美しい目で、三人を殺したのだとすれば、異常な人間だ。もっとも殺人を犯す者は、どこか異常であるはずだ。正常な人間が人殺しをするわけはない。  動機という点から言えば、強いのっぴきならないものがあったと思われる。老婆をはねて死なしてしまった、という動機は本人にとってどれくらいのものだろう、と思ってみる。神崎雅比古の母親は、公民党の委員長だ。政治家としての影響はあるだろうが、人を殺すほどの動機にはならないように思える。  たしかに、一人殺せば二人、三人と殺していかなければならなくなる。だが、そのパターンではないように思える。裏には別の動機が潜んでいるのではあるまいか。 「あった!」  亨が小さく叫んだ。  時刻表のカラーページに、里程《りてい》表がのっていた。 「どれくらいある?」 「東京から岡山まで七三二・九キロだ」 「七三〇キロ」 「高速に乗れば、平均時速八○キロとしても十時間足らずだ」 「八日の午前二時に岡山なら、東京には正午に着ける計算になる。八日の午後五時三〇分が『さくら』の発車時間だ。だが、赤座加津子の死体は九日の朝、井の頭公園の池に沈んでいた。池に沈めるのは、八日の夜のうちでなければならない。すると先に百木英太郎を殺さなければならない」 「車のトランクに赤座をつめて、羽田空港に向かう。羽田の駐車場に車を置いて長崎空港へ、そして佐世保で百木英太郎と会い、佐世保駅に停車中の『さくら』の中で百木を殺し、長崎空港から全日空機に乗り、午後九時には新宿のクラブに入る」 「『さくら』で殺して、全日空機に乗れればのことだがな」 「そこがポイントだな」 「新宿のクラブから、加津子の死体を積んだ車で井の頭に向かう。そして池の中に沈める」 「待て、クラブで酒をのんだかどうかは聞かなかった。のまなかったのか。飲酒運転は危い。車に死体を積んでいるんだから、それにまだ死体を運ぶ仕事が残っている。酒はのめないだろう」 「赤座誠史という共犯者がいる。その辺はどうにでもなる。誠史が岡山から車を運転したとすれば、美樹に苦労はないわけだ」  二人は、厚い時刻表を持って、食堂車に向かった。当然、夕食はまだだった。平栗はビールが好きな男である。食事が運ばれて来る前にビールを一本たのむ。 「小銭、おまえは見城美樹の単独犯だと思っているのか」 「この前、七日に『さくら』に乗ったときには、女一人ではむりだ、と考えた。だから、共犯者を考え、加津子に保険を掛けていた誠史が浮かんで来た」 「誠史のアリバイは崩れるさ」 「美樹が、誠史のアリバイが完全でないことを知っているとすれば、誠史も捜査本部に呼ばれる前に、始末しなければならないことになる」 「アリバイが完璧だったら」 「それでも、おれは美樹の単独犯行と考えたいな。オヤジを殺すのに加津子を利用したために、彼女も殺さなければならなくなった。それに、いま考えたように、彼女の単独犯行は可能だ。六千五百万の保険は偶然だよ。そんな風に変って来た」  一本のビールが空になったところで、食事が運ばれて来た。食事の間だけ二人は黙した。窓外はすでに暗くなっている。名古屋を過ぎたところだった。     5  亨と平栗はまたビールをとった。食堂車に乗客は入ってくるが、食事をすませると去っていく。常に半分ほどの席は空いている。二人は席を気にせずにゆっくりしていられた。 「九月八日の午前二時前後のことを考えてみよう」 「その前に、赤座|誠史《たかふみ》のことを教えてくれ、おまえは会ったんだろう。どんな男だ」 「そうだな、背の高い男だ。ひょろっとしているが、目つきが気に入らなかった。あれは格闘技を何かやるな、ひょろっとしているがそんな体つきだ」  亨は、池袋駅のプラットホームで会った男を思い出した。あれは赤座誠史だったのだ。平栗が言う通りの男だった。誠史は、加津子の部屋に亨がいるのを知って、何者だろうと亨のあとを付けて来たようだ。にやりと笑ったあの笑い方は、平栗が言うように気に入らなかった。誠史が美樹と共犯とすれば、亨の存在が気になって当然だし、共犯でなくても加津子の浮気相手だと思ったのかもしれない。誠史には人妻の愛人がいる。そういう男に限って嫉妬深いのではないのだろうか。 「八日の午前二時前後、何が起った?」 「おれは、運転停車ということを知らなかったので、あのときたしかに油断があった。田沢主任が言ったようにな」 「誰かカーテンの外を通るのに気付かなかった、というのか」 「眠ってはいなかった。だが、あのときおれは何か別のことを考えていた。二号車と一号車の二十四人の名簿には怪しい者はいなかった、となれば、そう考えるしかないだろう」 「誰が通ったんだ」 「見城美樹さ、彼女は三号車から後に乗っていた。彼女はおれの前を通り、赤座加津子の席にメモを投げ込んでおいて、二号車のトイレに行った。加津子はメモを見て、トイレの中に金の入ったカバンがあると思って、トイレに向かう。そして、手前のトイレに入る。カバンを探す。そこでトイレのドアが開き、M61エスコートを持った美樹が現われ、三発射ち込む」 「トイレのドアは自動で閉まる。そこへ松田昭子がトイレにやってくる。美樹はあわてて隣りのトイレに隠れる。松田昭子がドアをあけて加津子の死体を発見する。そのときトイレから出た美樹は、松田昭子の背後に回り、クロロホルムをしみ込ませた綿かガーゼを鼻口に当てる」 「クロロホルムまで用意していたのかな」 「人一人を殺すんだ。たとえ拳銃があってもさまざまな場面を考えて準備していただろうよ」 「美樹は、ハイヒールではなく、パンタロンかジーパンにスニーカーのようなものをはいていた。車で加津子を運ばなければならんとしたら、軽装だったろう。だから、おれは彼女がおれの前を通るのに気付かなかった」 「それはあるな」  平栗はビールで咽を潤おす。亨は煙草に火をつけた。 「加津子の死体を引きずり出し、松田昭子の体をトイレの中に入れる」 「ドアの落し金にはナイロン糸、釣り糸のようなものを巻きつけ外に出しておいて、ドアを閉め、糸を下に引っぱる。糸が輪のようになっていれば、鍵がかかってから、糸を切り、一方を引っぱれば糸は抜けてくる。これでトイレは密室状態になる」 「それからだ問題は。どうして列車の外に消えられるのか」 「車掌室の窓は六十センチ角くらいは開くそうだ。そこから死体をホームとは反対側に落し、美樹もそこから脱出する。列車が出てしまうまで、近くに潜んで待っている。『さくら』が出たあとは、朝まで列車の通過はないだろうから、ホームも駅もほとんど無人になる。加津子の死体は自由に駅構内から外に運び出せる。近くに盗難車を置いておけばいい」 「下調べも充分にしただろうからな。だが、人家のないところに車が止っていれば、人目につかないかな」 「それもあるな、その辺は岡山署に調べてもらえばいい」 「それに加津子は血を流していた。美樹の衣服には血がついた」 「それは、車にもどってから着換えればいい。当然、着換えも用意していたさ」 「そうなると問題は脱出法だな」  平栗はそう言い、亨の煙草に手を出した。火をつけながら考える。 「小銭、おまえは美樹をほんとに犯人と考えているのか」 「心情的には違うと言いたい。だけど、他に容疑者が出て来ない以上、仕方がないだろう」 「そういうことだな。おれは、今度の殺人動機はおまえの親父さんではないような気がして来た」 「だとすると、どういうことになる」 「わからんが、何か裏があるような気がする。田沢主任も、落し穴があるような気がする、と呟いていたよ」  一昨日、新宿で原田恒夫ら三人に襲われたことは、平栗にも話しておいた。 「おれを襲った原田恒夫」 「ああ」 「原田は美樹に頼まれたと言った。美樹もそれを認めた。だが、襲わせたのは美樹ではないのではないかな。美樹にすぐ連絡が入るような立場の人間がいる」 「誰かって、神崎雅比古ではないのか」 「違うだろうな。あの男は何もできないよ」 「雅比古の他に誰がいる」 「わからんよ。だけど捜査本部は何か見落しているんじゃないのか」 「あり得るな、今度の事件は、はじめからおかしかった」  そこへ、さきほど声をかけておいた車掌が顔を出した。井上と名乗った。 「こちらでしたか」  亨が食事代、ビール代を払った。そして井上車掌を二号車に案内する。A寝台である。 「九月七日、東京発『さくら』で殺人事件がありました」 「はあ、聞いています」 「A寝台車のトイレから死体が消えました」 「そうだそうですね」  四号車と三号車を通って二号車に入る。トイレはその前方だ。このトイレは一号車にも近いので、一号車の乗客も利用する。  三人はトイレの前に立った。そこは洗面所になっている。 「このトイレに、女性客が失神して入っていました」  井上車掌の顔を見る。困惑した顔をしている。 「ここから死体が運び去られたんです。八日の午前二時ころ。岡山に着く前後です。運転停車でドアは開かない。どうやったら外へ出られるんですかね」  井上は何かを知っているようだ。 「困りましたね」 「教えてくれませんか」 「このことは、一般の人には知られたくないことなんです。悪戯されると危険ですし」 「口外しませんよ。それにこれは殺人事件です。何かトリックがあるんですか」 「トリックというほどのものではありません。どうぞこちらへ」  と車掌は、一号車のデッキに入る。そこに乗降口がある。二号車の乗降口は後になる。デッキの壁に非常用コックがあった。井上車掌はそれを指さした。 「これですよ。このコックを引くと、ドアは手動になります」 「しかし、コックを引くと列車全体が止まるんじゃないですか」 「電車なら電源が切れて、全体が止まります。でも『さくら』はディーゼル車です」 「ということは、どういうことです」 「このコックを引いても列車は止まりません。この場合は、一号車のドアだけ開きます」 「走行中もですか」 「そうです。だから危険なのです」 「でも、だとしたら、ブザーか何か鳴るんじゃないですか」 「ドアがみんな閉っているかどうかの表示は車掌室の頭の上に二個のランプがあります。発車する前に、二個のランプがついているかどうかを確めて発車します」 「すると、非常コックを引いたら、その二個のランプの一つは消えるわけでしょう」 「ええ消えます。でも車掌もそのランプをいつも見ているわけではありません」  亨は平栗と顔を見合わせた。マジックは、不可能なことをしているように見せ、ネタがわかってみれば、�ナーンダ�ということになる。列車から消えた死体も、こうしてタネ明しをしてもらえば、どうってことないトリックだったのだ。 「ほんとに開くんでしょうね」 「試してみましょうか」 「いいんですか、列車の運行に支障はありませんか」 「主任車掌が気付けば文句言うでしょう。でも殺人事件の捜査だと言えば、わかってくれますよ」  小さなガラス窓は赤いペンキで囲まれている。十センチ四方ほどの窓である。その窓を開いた。中にコックがある。井上車掌はそのコックを引いた。何かガスが洩れるような音がした。  東京の各JR電車は、電車だからこのコックを引けば自動的にブレーキがかかるようになっている。新幹線も同じである。だが、ディーゼル機関車に引かれる列車は、電車ではなかった。  平栗がドアに手をかける。そして引くとドアが開き、外の空気がワッと吹きつけて来て、彼はあわててドアを閉めた。そこで車掌は非常コックをもとにもどした。  しかし、と言ったのは亨である。 「犯人は一人だとします。このコックを開いて犯人は死体を抱いて、岡山のホームとは反対側に降りたとします。たとえ運転停車でも人目があるかもしれない。そのとき、犯人が降りたあとはどうなりますか」 「コックは引いたままでしょうね。たとえ外からドアを閉めたとしても、コックをもとにもどすことはできません」 「すると、コックをもとにもどすために、共犯がいたことになりますね」 「やっぱり、共犯者がいたわけだ」  岡山に着く前に、美樹が一号車の非常コックを引いておく、すると赤座|誠史《たかふみ》は、車外にいてもドアを押し開けて乗り込んで来られる。そこに美樹が加津子の死体を引きずってくる。誠史は死体を車外へ出す。美樹はドアを閉めコックをもとにもどす。そういう経過を考えてみた。これだと死体は簡単に『さくら』の中から消えるわけだ。 「長い間、コックが開いていると、車掌さんも気付くことになりますね」 「ただ、こういうことはあると思います」  井上車掌が言った。 「車掌は、列車内を見廻りに来ます。そのときコックが開いているのをみつければ、誰かの悪戯だろうと思い閉めるでしょう」  平栗がふむっと唸《うな》った。 「単独犯の可能性もあるわけだ」 「しかし、あのときは、車掌も三人集って、死体が消えたと、われわれは騒いでいるときでした。三人の車掌さんの誰かがコックを閉めたのなら、そう言ってもらえたはずですが」 「いいにくかったんじゃないですか、このことは業務秘密になっていますので」 「九月七日、八日に『さくら』に乗った車掌さんの名前はわかっていますよね」 「それは、ちゃんとスケジュール表がありますから、車掌区に行けば、すぐわかります。いますぐは連絡はとれないでしょうが」  それは田沢主任に調べてもらえばいい。車掌の一人がコックを閉めたとなれば、これは美樹の単独犯の可能性が強くなる。平栗は、井上車掌に礼を言い、自分たちの席にもどった。  八章 崩れたアリバイ     1 『さくら』は、午前一〇時二七分に佐世保に着いた。今日の上り、佐世保発『さくら』の状況を確かめなければならない。『さくら』に合わせて、タクシーで長崎空港まで行ってみるつもりでもいた。  駅前の『佐世保シティホテル』に部屋をとった。ビジネスホテルである。もっとも寝れればいいのだから、上等のホテルに泊ることはない。  佐世保で捜査するのであれば、佐世保警察署に挨拶しておかなければならない。佐世保市には三つの警察署がある。南佐世保署、北佐世保署、佐世保中央署である。  ホテルでシャワーを浴びた二人は、タクシーで佐世保中央署に向った。署次長の木塚警視が出迎えてくれた。 「丸の内署の田沢主任から電話ばもろうたとです、お待ちしておりました。ご苦労さんですな」  二人は署長室に案内され、署長に紹介された。 「次長、お二人に佐世保ば案内してやらんですか」 「そうしましょう」  筋を通せば地元の人は親切である。  警視といえば平栗《へぐり》とはランクが違う。 「いや、それではもったいないですよ。ぼくには、この友人もいますから」 「そがん、遠慮せんちゃよかですたい。次長というとは暇ですけん」  木塚次長も五十を過ぎているようだ。  仕方なく事件の経緯を簡単に説明する。『さくら』と全日空666便との関連も話した。佐世保へ来たメインテーマは、その時間差だった。 「そがんことやったら、署の車ば出しますけん。いまのとこ、事件らしか事件もなかですけん。警察が暇ということはよかことですたい」  屈託がない。 「心配せんでよかですよ、パトカーじゃなかですけん、覆面ならよかでしょうが、おいが運転しますと」  そこまで言われれば、断るわけにもいかない。木塚次長は署長室から消えた。 「そちらの小銭《こぜに》さんでしたかな」 「はい」 「あなたは、よか体しとらすたいね、何かやらるるとでしょう」  と署長が言う。 「高校、大学と空手をやっていました」 「何段ですか」 「一応、三段ですが」 「うちの次長も柔道四段、剣道三段ですもんね、ばってん、空手三段というとは、違うとでしょう」 「いいえ、違わないです」  木塚が私服に着換えて来た。亨よりもいくらか背が高い。それに柔道四段というだけあって横幅も広い。 「そいじゃ、いきましょか、こいも公務ですけん、気にせんちゃよかですよ」  警察署を出る。佐世保中央署としても、いつ東京の警察に世話になるかわからない。このようなことで繋《つな》がっておけばメリットはあるのだ。  木塚が運転席に乗り、平栗が助手席に乗った。亨は後シートである。車は佐世保駅に向う。駅事務室に入った。応待に出たのは首席助役と肩書きのある人だった。木塚が二人を紹介する。 「九月八日の事件ですね、聞いとります」  一七時三〇分発『さくら』は、佐世保始発だから、早くからホームに止っている。ホームに入るのが、一六時四五分、と言った。すると、発車するまで四十五分間もある。 「改札は何分ころですか」 『さくら』が出る前に、博多行きの快速『みどり22号』が一七時一三分、その前、各駅停車の博多行きが一七時ちょうどがあって、改札は『さくら』がホームに入る前からやっている。いつでも乗れるわけだ。  一六時四五分にホームに『さくら』がいるのなら、全日空666便の一八時二〇分までは、一時間三十五分間あることになる。一時間二十分で空港に着いても間に合うことになる。  亨は、ちらりとそのことを考えたが、『さくら』の中で、百木英太郎と女は、松本車掌によって車内改札を受けている。それが松本車掌の証言では、発車二十分ほど前、一七時一〇分ころだったと言った。そのことはもちろん手帳に書いてある。  車内改札のあと、女は百木の体に即効性の睡眠薬を注入する。百木はすぐ横になるだろう。そこに更に蝮毒を注入する。それが五分間と考える。女はすぐに列車を降りて、改札口を出るとタクシー乗り場に向かう。タクシーに乗ったのが一七時一五分。666便の離陸まで一時間と五分。  その時刻に合わせて、亨と平栗は木塚の車に乗った。車がスタートする。一分でも惜しい。木塚の運転は確かなようだ。全日空離陸の十分前に着けば、何とか乗れるだろう。となると五十五分間しかない。  運よく走れて一時間十分だという。一時間三十分見ておかないと安全ではないと聞いた。一時間十分で着いても一八時二五分になる。着いたときには、五分前に離陸していることになる。間に合うわけはない、が一度は行ってみなければならない。長崎空港に行けば、何かわかるかもしれないのだ。  例えば、何かの都合で、十五分ほど離陸が遅れたなどということもないわけではない。たまたま十五分遅れたとしても、それをあてにして殺人は行えない。 「サイレンば鳴らしましょうか、そしたら五十分でいくかもわからんですばい」 「まさか、殺人犯がパトカーに乗るわけはないですからね」 「そがんですたいね」  と木塚は笑った。豪快な男のようだ。 「犯人の目的はアリバイを作ることですからね、間に合うかどうかの危険な方法はとらないはずですがね」 「ヘリでも使わんばいかんごたるですたいね」  早岐駅周辺は、聞いていたように市街地で道幅も広くないし、車が渋滞していた。 「他の列車とかバスとか、早く着ける方法はないでしょうね」 「やっぱり、タクシーが一番早かでしょうね。バスも同じ道ば走るとですけん」 「早岐駅まで『さくら』で行き、そこからタクシーとか」 「そいでも短縮はできんごたるですね。早岐にはタクシーはおらんごたるし、おって、前もって頼んでおいても、かえって時間のかかるとじゃなかですか」  美樹は、一八時二〇分発、全日空666便に乗っている。これに乗らないと、午後九時に新宿には立てない。この666便が東京行きの最終便である。 『さくら』で博多駅までいき、福岡空港からの便を考え、時刻表を開く。福岡空港から東京行きの最終便は全日空機268便、二〇時三〇分があった。 『さくら』が博多駅に着くのは一九時四四分、博多駅からタクシーで空港までは十五分くらいだという。すると268便に間に合うことになる。だが、この268便が羽田に着くのは二二時ちょうど。つまり十時である。単純に計算しても一時間足りないし、羽田から新宿までを考えてみると二時間足りないことになる。  佐世保からタクシーを走らせて福岡空港に向かったとして、三時間ほどかかるという。これは問題にならない。 「不可能か」  だが、赤座加津子が『さくら』から消えたのも、はじめは不可能に思えたのに、車掌の説明で可能になった。何か方法はあるはずである。可能にしなければならないのだ。  早岐を抜けると車はスムーズに流れはじめた。右手車窓に海が見えて来た。大村湾である。空港は大村湾の中の島に作られ、一本の橋でつながっている。 「大村湾って広いのですね」 「広かですよ、それが海水の出入口は、いま西海橋の下の狭かところしかなかですもんね。そいけん、湾内には大きか船は入られんとです。日本三大急流の一つと言われとっとです。橋から下ば見れば、潮の渦ば巻きよるですもんね。行ってみられんですか」 「いや、観光じゃありませんから」  空港は、長崎と佐世保のほぼ中間に位置するが、空港から長崎までは高速道路ができていて四十分ほどで行くという。佐世保まで高速道路が延びるのはいつのことになるかわからない、という。 「もう間に合いませんね」  と平栗が言った。腕時計は六時十分を指していた。すでに着いていなければ666便には乗れない。  空港ビルの前に車が横付けになったのは、六時三十分だった。それでも車は一時間十五分で走って来たことになる。二十分足りない。  木塚は車を駐車場に置いてビルに入って来た。交通公社などで買ったキップは、受付で搭乗券に交換しなければならない。それから金属探知機のアーチをくぐって搭乗待合室に行き、改札口を入る。その間少くとも十分はかかる。 「誰か、搭乗券に換えて改札口で待っていたらどうかな」 「それで五分稼げるか、すると十五分に短縮できる。だけど、そうなると共犯者がいたことになる」 「共犯者は考えたくないな」 「共犯者がいれば、偽のパトカーか救急車を使える。すると間に合うのではないか、パトカーか救急車なら、二十分は早く着くだろう」 「そうなるとテレビ映画だな」 「だが、できないことはない。共犯者が一人いればだ。これで不可能が可能になる」  空港の搭乗者受付で、九月八日のことを聞いてみた。受付の女性は首をひねった。平栗が警察手帳を出した。すると空港職員が姿を見せた。案内されて事務所に入った。 「九月八日、全日空666便ですが、何か変ったことはありませんでしたか」 「変ったこととは、どういうことでしょうか」 「予定より遅れたとか、ぎりぎりに乗客が走り込んで来たとか、その乗客は二十七、八の女性と思えるんですが」 「ちょっとお待ち下さい」  とその三十すぎとみえる職員は歩き去った。  木塚を加えた三人はソファに坐って待つ。職員はもどって来た。 「八日の666便は、定刻に離陸しております。駈け込みのお客さまもなかったようです」 「そうですか」  平栗は肩を落した。 「八日の666便の前に、パトカーか救急車が着いたようなことは、どうでしょう」  職員はいやがりもせずに、空港内のあちこちに問い合わせてくれた。だが、それも確認はできなかった。  礼を言って空港事務所を出る。 「お手あげだな」 「だが、何か方法はあるはずだ」  亨は、時刻表の地図を見ていた。  佐世保の港から、大村空港まで大村湾の中に青い線が引いてある。 「平栗、佐世保から空港まで船便があるらしいぞ」 「ああ、それなら、オランダ村を回ってくる高速船ですたい」  と木塚が言った。 「船乗り場はどこですか」  すでに外は暗くなっている。空港ビルの右手に桟橋があった。だが、すでに船便も終ったらしく、灯りもなく人気もない。 「どれくらいかかるんですか」 「佐世保から一時間十分と聞いたことのあるとです」  時刻表のページをめくる。631ページに長崎地方のバスや船便の時刻表が出ていた。  佐世保港を出る船の最終は、一六時四五分、そして長崎空港は一八時五分着。東京行き666便に合わせてあるようだ。  一六時四五分の船に乗れれば、666便に間に合う。だが、美樹は一七時一〇分より前には佐世保駅を出られない。そして船便でも一時間二十分かかっている。 「平栗、船も駄目だな」 「佐世保まで来ても無駄だったか」 「お二人さん、佐世保にもどらんですか。一杯やりましょう。酒ばのめば、よか考えの出るかもしれんですたい」  木塚は、二人を慰めるように言った。 「あと十五分、十五分短縮できれば、666便に乗れる」  亨は呟いていた。     2  そのころ——。  弁護士、津知田涼子《つちだりようこ》は一人事務所に残って事件の調書を読んでいた。  机上の電話のベルが鳴った。受話器を把《と》る。 「はい、畔倉《あぜくら》弁護士事務所です」 「涼子くん、いてくれたか、よかった。きみに会わせたい人がいる。出て来てくれないか」  畔倉弁護士だった。畔倉はしきりに涼子に見合いさせようとしている。またお見合いかと思った。 「お見合いじゃない、仕事だよ。いま新宿プリンスホテルのラウンジにいる。二十分で来られるね、たのむ」  電話は一方的に切れた。新宿プリンスホテルは、西武新宿駅にある。畔倉とは何度かそこで酒をのんだことがあった。歩いても十数分である。涼子は書類を片付け、事務所を閉めて外へ出た。  ホテルのエレベーターを最上階へ上る。ラウンジはクラブ風になっている。むこうの窓ぎわで畔倉が手を上げた。畔倉は六十歳になる。涼子の父親の後輩に当るのだ。畔倉の前に美しい女が坐っていた。首が長く、背も高そうだ。着ているもののセンスもいい。  涼子は、女と目を合わせた。そこに火花が散ったようだ。美貌という点では涼子のほうが上かもしれないが、美人の条件は顔よりもむしろ全身にある。涼子にとって体が小さいのは最大のコンプレックスだった。 「彼女が、いま話していた津知田涼子くんです。こちらは、東城大学で講師をしておられる見城美樹さんだ」  涼子は、アッ、と思った。見城美樹のことは小銭亨からも平栗刑事からも聞いていた。彼女は美樹と向い合う形で坐ったが、美樹が立ち上ったので、涼子も立った。 「先生のことは、いま畔倉先生からお聞きしていたところです」  名刺を交換する。美樹はどうぞ、と涼子を先に坐らせた。 「涼子くんも、すでに知っていると思うが、小銭亨くんに関る事件のようだ。見城さんとは直接には知らなかったが、公民党の神崎八重さんからの話でね、ぼくがやりたいところだが、手が放せなくてね、きみにやってもらいたいのだが、どうだろうね」 「お仕事ですから」 「そうか、引き受けてくれるか、それはよかった。飲みものは何にするね」 「先にビールをいただきます」  そういう間にも、お互いはお互いを観察していた。 「先生が、こんなにお美しい方とは、思っていませんでしたわ」  涼子は微笑した。 「容姿は、弁護士としての仕事にはメリットはありませんのよ」 「すまないが、ぼくは約束がある。話は見城さんから聞いてくれ、失礼しますよ」  と言って畔倉は立ち上った。二人の女も立ち上って見送る。美樹と涼子の背丈は十センチほども差があった。涼子は坐って運ばれて来たビールをのむ。 「先生は、小銭亨さんとは、大学が一緒だったそうですね、小銭さんって強い方ですのね。この間、小銭さん、三人の男に襲われたんですって、その三人もただの男ではなかったそうなんですけど、小銭さんに叩きのめされたと聞きました」  小銭亨が喧嘩したとは、涼子はまだ聞いていなかった。今度の事件に関係のあることだろうか、と思ってみる。 「でも、腕力が強いだけでは、生活の足しにはなりませんわ」 「先生は厳しいんですのね」 「腕力が強いだけがその人のメリットなら、暴力団にでも入るしかないと思いますけど」 「先生は、小銭さんをお嫌いですか」 「いいえ、大学のころからの友だちですし、亨くんは他に能力を持っています」  美樹は、ウイスキーの水割りをのんでいた。お互いにインテリではある。だが、女としての魅力は美樹のほうが上だろう。涼子には色気などというものはない。端正でどこか冷めたい。もっとも涼子のように小柄な女に魅力を覚える男も多いのだろうが、彼女は男というものを気にしたことはない。 「お話をおうかがいしましょうか」 「今度の三つの事件はご存知でしょうか」 「ええ、亨くんに聞いて、だいたいのことは知っています」  小銭亨に調査費まで出していることは口にしなかった。 「あたし、三つの事件の容疑者と思われているようです。でも、あたし、三人の誰も殺してなんかいません」 「…………」  涼子は、美樹の顔を見ていた。まっすぐな目である。美樹のほうが目を逸らした。 「でも、三件とも、あたしにはアリバイがないんです。ですからもしかしたら、あたしに逮捕状が出るかもしれないんです」 「アリバイがないだけでは逮捕状は出ないと思いますが」 「逮捕状は出なくても、この二、三日のうちに参考人として呼ばれそうな気がしているんです。それで先生にお願いしたいと思いまして」 「容疑者としてあなたが表に出て来たのは、亨くんのお父さんが書いた扇子《せんす》ですね」 「ええ、そのようです」 「あの扇子の文字は嘘なんですか」  美樹は黙った。 「ほんとのことをおっしゃっていただかないと、わたしは弁護できません。依頼者の不利益になることは口に出来ない立場ですから」 「わかりました。扇子の文字は一部分ほんとうです。神崎雅比古は、秋坂うめを轢殺《れきさつ》はしていません。ただ、あの豪雨の中、雅比古は車を運転していました。もちろんライトは点けていました。あたしは助手席にいたんです。目の前を黒い影がよぎり、雅比古はブレーキを踏みました。車にはショックは受けませんでした。そのことは世田谷警察署でもわかっているはずです」 「ええ、でも、神崎さんの車と秋坂うめさんの死との因果関係はあるでしょう。車のために秋坂うめさんは転んで頭を打って亡くなった。もちろん秋坂うめさんにも過失責任はありますが」 「車を止めた雅比古さんは助けようと車を降りかけましたが、あたしが止めたんです。お母さまへの影響を考えて、だから、罪があるとすれば、あたしなんです」 「それを小銭徳次さんに目撃された」 「あたしは、秋坂さんが亡くなるとは思ってもいませんでした。ただ転んだだけだろうと。亡くなったのは翌日の新聞で知りました」 「その事件は立証がむつかしいでしょうね。たとえ小銭徳次さんが証言したとしても」 「小銭さんから雅比古に電話がかかって来ました。彼はそういうことには向いていませんので、あたしが代理として、小銭さんと応待することにしました」 「小銭さんは、いくら要求して来ましたか」  ずばりと質問した。 「小銭さんは、止めましょうと、一度は電話をお切りになりましたが、やはり諦めきれなかったようで……」 「情は抜きにしましょう。事実だけをお話し下さい」 「はい。ご両親のお墓を立てるために五百万円。あたしは承知しました。五百万は用意すると申しました。小銭さんは、八月のお盆に墓参りをしていなかったので、福岡に行って来たい、と言われたので、博多までの往復キップと十万円をさし上げ、墓の予約をなさって来て下さいと申し上げたんです。小銭さんとはそれが最後になりました」 「…………」 「九月二日の新聞で、小銭さんが亡くなったのを知ってびっくりしました。『さくら』の中で病死とありましたし、ですから、五百万も宙に浮いたままになりました。まさか、息子さんの亨さんに上げるわけにもいかないでしょう。他殺だと知ったのは、ずっとあとのことです。信じていただけますか。あたしは何もしていないんです。たった五百万のために人を殺すなんて、それもあたしが出すわけではありません」 「禍根を断つために、いいえ、そのことはいいでしょう。見城さん、あなたは愛する男性のためには、人殺しだってできるんじゃありません」  美樹は、涼子を見て目で笑った。 「そういう女性もいるんでしょうね」 「そういう女性に思い当る方がいるんじゃありません?」 「さあ」  と美樹は肩をすくめた。涼子のまっすぐな突き刺すような目に、彼女はかなわない、と思った。 「アリバイがない、っておっしゃったわね」 「八月三十日と三十一日の二日間は、少し風邪気味で吉祥寺のマンションにいました。誰にも会いませんでしたし、二度か三度電話のベルが鳴りましたけど出ませんでした。九月一日には大学に出ました」 「赤座加津子さんとは、どういうお知り合い?」 「それが、一度もお会いしたこともないし、お話したこともありません。それなのに、あたしが頼んで、京都から乗ってもらったことになっているようですけど」 「ほんとにご存知ないの」 「知りません」 「百木英太郎はご存知ですわよね」 「雅比古さんのお母さまの秘書ですから、三度ほど会っています。でもそれだけです」 「九月の七日と八日は」 「平戸から長崎へ旅行しました。六日に東京を発ち、六日は平戸、七日は長崎に泊り、八日の全日空機で帰って来ました」 「それが証明できますか」 「できません」 「なぜなの」 「あたし一人でしたから、誰にも知り合いには会っていませんので」  たいていこういうときには、アリバイを主張するものだ。どこのホテルに泊った、どういう店で何を買った、だからホテルの人や店の人は憶えているはずだ、と。ところが美樹はそれを主張しない。  平栗刑事から聞いた話でも、美樹は平戸、長崎のホテルでは、宿泊者名簿には自分の名前を書いていない。ただ、全日空666便にはケンジョウミキの名前がある。  そこには、何かの事情があるのだろう。だが、いまはそれを追及することは止めた。もしかしたら切札は握っているのかもしれない。 「六日にも『さくら』で行かれたんですか」 「ええ、あたしは列車の旅行が好きなものですから」 「でしたら、どうして八日に飛行機で?」 「九日には大学に出なければならなかったものですから」 「八日の夜九時には、新宿でお友だちと会う約束をなさっていましたね」 「ええ、亮子《りようこ》です。西郡《にしごり》亮子、高校のころからの友だちです」 「今日はこれくらいにしておきましょう。もし参考人として呼ばれたら、すぐあたしに連絡して下さい」 「よろしくお願いします」  と美樹は頭を下げた。     3  広い捜査本部には、田沢警部一人が残っていた。学校の教室のような部屋を、ゆっくりと歩き回る。  外が曇っていると部屋の中も冷んやりとする。晴れていれば外はまだ暑い。秋の気配が少しずつ忍び寄って来ていた。  昨日、平栗刑事は、佐世保中央署から電話して来て、赤座加津子の『さくら』から死体消失の謎を解明した、と言って来た。単独犯の可能性が強い、とも言った。それでいて、今朝には、佐世保のホテルから電話して来て、やはり共犯者がいるようだと言う。  八日の『さくら』と全日空666便の間には、共犯者がいないと不可能のような気がすると。 「主任、十五分の壁がどうにも破れないんです」  とややがっかりしたような声で言った。 「十五分の壁か」  と田沢は呟いた。  いまのところ容疑者は、見城美樹だけしかいない。加えて小銭徳次、赤座加津子、夫の誠史《たかふみ》、そして百木英太郎の周辺を、刑事たちは聞き込みに回っているが、たいした事実は出て来ないのだ。見城美樹と小銭徳次の関係はわかった。百木英太郎との関りもある、が赤座加津子、誠史との繋《つな》がりがない。美樹は、加津子と誠史を利用したはずなのに、何も出て来ない。 「東京—岡山間は七三二・九キロか」  赤座誠史が妻加津子殺しに加担していれば、九月八日の正午くらいまでのアリバイはないはずだ。東京まで十時間はかかる。その辺のアリバイを刑事たちは追っている。九月八日、誠史は会社を休んでいる。 「六千五百万の保険金がある」  誠史は、美樹に誘われれば乗ってくるだろう。保険金殺人としては金額が中途半端だが、一般人には六千五百万は大金である。  美樹の単独犯ならば、当日『さくら』に乗務していた三人の車掌のうち、一人が非常コックを閉めていなければならない、と平栗が言った。  もちろん、車掌が共犯ならば簡単なことだろうが、車掌が事件に関係しているはずはない。車内巡回のとき、車掌の一人が一号車の非常コックが開いているのをみつけ、閉めてしまい、平栗刑事に言い出せなかったということはある。おそらくそれは、二号車トイレで乗客松田昭子が発見される前だろう。騒ぎになって非常コックが開いているのをみつければ、当然、平栗に喋っているはずだ。  もちろん、車内に犯人が残っていれば、一人(これは赤座誠史と思われる)が加津子の死体を運び出したあと、美樹がコックを閉めることができる。  この死体消失事件をもう一度、はじめから考え直してみる。  七日の『さくら』に、見城美樹は三号車から後の車輛に乗っていた。赤座加津子は二号車のA寝台に乗せてある。乗車券は渡してあるのだから。京都から誠史を乗り込ませることにしていた。誠史は七時半まで東京にいたが、東京駅二〇時発の新幹線に乗れば、その新幹線は京都駅に先に着くのだ。  すると美樹は二枚の東京からの乗車券を持っていたことになる。京都からの乗車券では車掌が車内改札に来るからだ。東京から乗っても、横浜を過ぎたあたりから車内改札をはじめる。そのとき美樹は二枚の乗車券を出した。連れは、いまトイレに行っている、とでも言えば、車掌は疑わない。  大阪を過ぎれば徳山まで、六時間ほども列車は止まらない。だが美樹は岡山と広島で列車が運転停車することを知っていた。もちろんドアの開け方も知っていた。  赤座加津子を二号車に乗せたのは、それなりの計算があってのことだ。ドアの表示ランプは、車掌室の頭の上に二個ある。  計算された計画だったようだ。だが、いま一つ問題がある。二号車の13番上下の寝台には平栗刑事と小銭亨が乗っていた。美樹はこの二人が乗っているのは知っていただろう。用心深く計画を練り行動したはずだから。  美樹はカーテンの隙間から、平栗が通路を覗いていることを知っていた。カーテンをめくればカーテンは動く。  そのカーテンが動かなくなって美樹と誠史は足音を消して平栗の前を通る。途中、加津子の席にメモ用紙を投げ込む。そして前方トイレに行く。二人は一号車のデッキに隠れる。加津子がトイレに金を取りに来る。一方のトイレに入ったところを美樹がM61エスコートで射殺する。列車が止まる。  そこへ、松田昭子がトイレにやってくる。美樹は綿にクロロホルムを滲み込ませ、松田昭子を失神させ、誠史を呼んで加津子の死体を運び出させ、松田昭子をトイレに入れる。  非常コックを開き、誠史は加津子を抱いてドアを開け車外に出る。美樹はドアを閉じ、コックを閉める。 「そこで美樹はどうするのか」  美樹はもう一度、平栗刑事の前を通らなければ自分の席には行けない。二号車A寝台の空いた席に隠れる。小銭亨が気になって、加津子の席を覗き、いないことを知り、平栗を呼んでトイレに急ぐ。そのとき、美樹は寝台から出て後車輛に逃れる。 「そういうことなのか」  平栗刑事がそのあと気にしたのは、一号車と二号車の乗客である。三号車以後の車輛は無視した。三号車から十二号車まで十輛ある。五号車の食堂車を除いて、九輛あることになる。この乗客を調べるのは、不可能だったろう。美樹はどこで降りたのかわからない。あるいは長崎か佐世保まで行ったのだろう。  佐世保でその日のうちに百木英太郎に会わなければならないとすれば、終点佐世保まで行った可能性が強い。  田沢は、自分の椅子に坐った。煙草に火をつけ、ゆっくりと煙りを吐く。 「平栗が言っていたな」  赤座誠史が共犯となれば、誠史のアリバイが崩れそうになったとき、誠史まで殺さなければならなくなる。 「すると、美樹の単独犯行か」  だったら、小銭徳次殺しのときに、なぜ赤座加津子を使ったのか、ということになる。それとも、加津子は別の事情で殺されたのか。  電話のベルが鳴った。田沢は受話器を掴んだ。 「はい、捜査本部」 「主任、車掌の一人が、一号車の非常コックを閉めたのを認めましたよ。やはり、騒ぎになって言い出せなかったそうです。騒ぎの十分ほど前だそうです」 「車掌は、車掌室天井のランプが消えているのに気付かなかったんだな」 「そういうわけです」  と受話器をフックにもどす。  すると、美樹の単独犯行であったことになる。美樹は加津子の死体を抱いて一号車から降りた。ホームの反対側だろう。荷物は先に車外に出しておいた。当然、『さくら』に乗るときには普通の服装で、そのあと寝台の中で動きやすいジーパンか何かに着換えた。着換えるためにはボストンバッグか何か荷物がなければならない。  列車が出たあと、死体を前もって用意して置いた盗難車に運び、東京に向かう。車をまっすぐ羽田空港に運び駐車場に停める。  そこで田沢は時刻表をめくった。  全日空663便、一一時四五分発、長崎行きがある。これに乗れれば、一三時三〇分に長崎に着く、佐世保まで一時間半とみて三時には佐世保に着ける。そのころ、百木英太郎と会うことにしていた。百木とどういう用件があったのかは、まだわからない。  赤座誠史は事件には関係なかったことになる。六千五百万の保険金は偶然だったのか。あるいは、いつかは加津子を殺すつもりでいて、迷っている間に、うまく加津子が殺されたということなのか。  誠史をマークしていた刑事から電話があった。参考人として呼んでアリバイを追及しましょうか、という。彼は、赤座誠史はもういいからもどってくれ、と言い、受話器を叩きつけた。  そこへ、桑田、寺迫《てらさこ》両刑事がもどって来た。 「今度の事件に関係あるかどうかわかりませんが、百木英太郎の妹|泰美《やすみ》というのが、十一年前に自殺しているんですよ。それがブルトレ『さくら』の中なんです」 「『さくら』だって」 「そのことが気になりましてね」 「その事件は、どこであつかったんだ」 「この丸の内署だと思いますが」 「その記録を探してきてくれ」  桑田刑事が去る。寺迫刑事が残った。 「家族の話では、農薬をのんだらしいんです。もっとも遺書があったので自殺として処理されたらしいのですが」 「自殺の原因は何だ」 「厭世《えんせい》自殺とか、失恋自殺とか、はっきりしないんですよ」 「ブルトレでの自殺とは」 「どこかで農薬をのむつもりで持っていたけど、衝動的に寝台の中でのんだんじゃないんですかね」 「十一年前か、他殺の線はなかったんだな」 「十一年前のことですから」 「失恋自殺とすれば、その相手を探してくれ、何か出てくるかもしれん」  桑田刑事が記録を持って来た。  昭和五十一年五月二十三日。寝台特急『さくら』が東京駅に着いたところで、百木泰美の自殺体が発見された。当時二十二歳、長崎市内の小学校教諭だった。東京の誰かに会うために上り『さくら』に乗った。その誰かは家族は知らなかった。  遺書の写しはあったが、文章は厭世的で、世をはかなんでというやつで、遺書からは失恋とはわからない。名前もないのだ。ただ、解剖の結果、妊娠四ヵ月であることがわかった。遺書があったところから、丸の内署は自殺と断定した。他殺らしい線は何もないが、妊娠四ヵ月というところが気になる。妊娠四ヵ月になって、泰美は男に会いに上京する気になった。  遺書に男のことを書かなかったのは、自殺したあと男に迷惑がかかることを恐れたからか。 「遺書は偽造ではないのか、もちろん筆跡鑑定はしたんだろうな」  記録は簡単なものだった。遺書がある場合、警察ではわりに容易に自殺で処理してしまうケースがある。  遺体を引きとりに来た身内に事情は聞いているが、そこには百木英太郎の名前はない。そのころ百木英太郎は、神崎八重の周辺にいたようだ。まだ秘書ではなく、雑用係だったようだ。明治、大正時代なら、書生というところだろう。  身内も自殺だろう、と調書の中で言っている。事件の前に、沈み込んでいて、ひどく悩んでいたようだ。小学校教諭となれば妊娠はショックだったに違いない。だが、妊娠したからには男がいなければならない。その男は東京に住んでいる。だが記録にも男の名前はなかった。自殺と決まってしまえば、調べる必要もなかったのだろう。 「だが、これが他殺だったとなれば、どういうことになるのだ。英太郎は妹の仇を討とうとして逆に殺されたのか、だが、十一年も経っている」  捜査員をこの自殺事件に集中させてみる必要がある、と田沢は考えた。     4 「平栗、全日空666便に乗るには、やっぱりパトカーか救急車しかないな」  平栗刑事と小銭亨は、佐世保駅の待合室にいた。並んだ椅子に坐ってぼんやりとしていた。 「しかし、それだったら、共犯者がいなければならん。まさかパトカーを空港に止めたままというわけにはいかんだろう」 「おまえは、見城美樹の単独犯行と思っているのか」 「だが、そう考えなければ不可能だ。パトカーか救急車なら、長崎空港まで五十分ほどでいけるだろう。佐世保中央署に、パトカーか救急車が盗まれていないかどうか聞いてみてくれないか。それとも一台ふえているとか」 「ふえている、とはどういうことだ」 「犯人は、パトカーを作った。車体をそれらしく塗り換え、サイレンをつければ、一般車でもパトカーに見える。それを使ったあとはどこかの警察署の前に乗り捨てるということも考えられる」 「パトカーの車体には、長崎県警察と文字が入る。すると長崎県の警察だけでいいな。福岡県とか熊本県とか車体に入っていてはおかしいからな」  平栗が立って、赤電話に向かった。  亨は、共犯者はいないだろうな、と思う。単独では全日空666便に乗るのは不可能なのだ。二十分、いや十五分短縮できれば何とか乗れる。 「十五分の壁か」  と呟いてみる。平栗がもどって来た。 「木塚次長が快く引き受けてくれたよ」 「腹が空いたな」  すでに正午はすぎていた。駅舎から通りのほうまで地下道がある。その地下道に、みやげ物屋や簡易食堂が並んでいる。そこでチャンポンでも食おうか、ということになった。  小さなカウンターだけの店が、地下道に十軒ほどもあった。その一軒に入った。チャンポンをたのむ。長崎チャンポンである。だが店員の話だと、長崎のチャンポンと佐世保のチャンポンとは違うのだという。第一|麺《めん》が長崎のに比べると歯ごたえがあるのだ。 「佐世保のチャンポンがうまかですよ」  店員が言った。  電話を借りて、亨は津知田涼子に掛けた。これまでの状況を説明する。 「なんだって?」  亨は声をあげた。その亨を平栗が見る。涼子が見城美樹の弁護を引き受けたと言ったのである。もちろん、美樹に逮捕状が出るか、参考人として捜査本部に呼ばれたときだと言った。 「どうして、そんなことになったんだ」  神崎八重を通して畔倉《あぜくら》弁護士に話があり、涼子に回って来た。 「あたしとしては断るわけにはいかないでしょう。先生の命令だから」 「そうなると、平栗とは反対の立場になる」 「おそらく、見城美樹のアリバイは崩れるわ。彼女がそう言っているんだから。問題はそのあとよ。あたしが連絡するまで佐世保にいるのよ。亨、これは、あなたの私情じゃないのよ、弁護士としてのあたしの仕事なの。美樹のアリバイが崩れたあとに、別の新しいアリバイが出てくると思う。それは、佐世保か平戸、そして長崎ね」 「アリバイのあとのアリバイ?」 「そう。あたしにも、まだ見城美樹が何を考えているのかわからないの。お願いよ」 「わかった」  受話器を置いた。 「妙なことになった」 「とにかく、チャンポンを食ってから考えよう」  カウンターの上に大丼のチャンポンが二つ並んでいた。とりあえずは腹を充たすことだった。食べ終えるまでは二人とも黙した。食いながら考えている。  はじめから見城美樹には得体の知れないところがあった。亨にも美樹が犯人とは思えない。だが何かを握っている。たいてい容疑者は自分のアリバイを主張するものだが、美樹ははじめからアリバイがないと言っている。九時に東京・新宿の会員制クラブ『エスカイヤー』にいたのだって、そこで友だちを待ち合わせていた、というだけでアリバイを主張しているわけではない。捜査本部が勝手に、百木英太郎殺しに合わせて、全日空666便に乗れた可能性を求めているだけなのだ。  そのアリバイも崩されると知って、涼子に助けを求めた。 「どうする、小銭」 「どうするって、まず、十五分の壁を破るしかないだろう」 「何をやるんだ。パトカーか、救急車か、それともヘリか」 「もう一つある。高速船だ」 「だが、それも一時間二十分かかる」 「他にやることはないんだ。桟橋まで行ってみようじゃないか」 「そうだな、その高速船に乗ってみてもいいな、オランダ村にでも行ってみるか」  二人は地上に上り、タクシー乗り場に向かった。タクシーに乗り込む。 「長崎空港行きの船があるそうですね」 「ああ、安田汽船ですたいね」 「舟乗り場までどれくらいかかりますか」 「すぐです。五分あればよかですよ」  タクシーは左折して港へ出た。左手に深い青色の海が広がって見えた。佐世保港である。  小さな駅舎みたいな建物の前で降りた。『安田産業汽船』とある。建物の中に入って時刻表を見る。高速船は、オランダ村、長崎空港を経て大村に行く。一二時四五分発は出たばかりである。次は一三時四五分である。  出札口を覗く。そこに三十ばかりの男が坐って煙草を吸っていた。 「長崎空港行きは」 「いま出たばかりですたい。次は一時間後ですもんね」 「空港までは、どれくらいかかりますか」 「一時間二十分です」 「オランダ村に止まらない船はないんですか」 「定期ですもんね」  二人は建物を出て岸壁に立った。潮の匂いがする。むこうで釣糸を垂れている人がいた。桟橋には、小さなモーターボートのような船が停っている。これが高速船なのか。デッキがない。船室はドームで覆われている。遊覧船ではない。高速で走るから、客室にしぶきがかからないように包み込んであるのだ。 「小銭、方法がない」 「あるさ」 「どういう方法だ」 「あの船をチャーターする」 「なに?」 「安田汽船ったって商売だろう。金さえ払えば、客が一人だって走ってくれるさ」 「そうだったな、聞いてみよう。まっすぐに空港に走ってもらう。空港まで五十分でいけば間に合う」  二人は、また建物の中に入った。さっきの男がいた。 「高速船はチャーターできますか」 「できますよ」  男はあっさり言った。だがチャーターできても五十五分以上かかっては何の役にも立たない。 「どれくらいかかりますか」 「人数にもよりますばってん」 「一人でです」 「一人で? 一人やったら二万円出してもらわんば合わんですもんね」 「二万円でもいいですよ、空港まで急いで時間はどれくらい」 「三十五分ですたい」 「なに!」  平栗が叫んだ。男がびっくりして平栗を見た。男はごく当り前のように言った。 「三十五分でいくのか」 「いきますよ、うちの船は高速ですけん早かとです」  三十五分で着けば、佐世保駅から五分かかって、四十分で空港に行けることになる。ゆっくり全日空666便に乗れる。 「小銭、これだな」 「そのようだな」 「ついに、アリバイは崩れた、いや、まだだ」  平栗は警察手帳を出した。 「警察の方ですか」 「東京、警視庁だが、運航日誌のようなものはありますか」 「はい、ありますばってん」 「九月八日、船をチャーターした人がいるはずだけど」 「ちょっと待ってくれんですか、安田汽船の事務長さんば呼んで来ますけん」  男は裏から外へ出ると走り去った。平栗は興奮しているが、亨は複雑な気持ちだった。 「やっと十五分の壁は破れた。こういう方法があったわけだ。でも、見城美樹はよく調べたものだ」 「彼女はこのアリバイが破れることは知っていた」 「作ったアリバイはいつか崩れるものさ」  涼子はもう一つのアリバイがあるはずだ、と言った。それが何だかは、いまは思いも及ばない。  五十年配の白髪頭の男が入って来た。 「東京の刑事さんとですか」 「九月八日、高速船をチャーターした人がいるはずですが」 「はい、よう覚えとります」  警察と聞いて、腰が低い。 「その人はどういう人でした」 「二十七、八のよか女子《おなご》やったですよ。背の高か女です」  平栗はにやりとした。 「長崎空港までですね」 「そがんです」 「何時ころでしたか」 「五時半、いいえ、その前でした。その女の人は、三時すぎころ、ここに見えて、チャーターされたとです。五時二十分ころ、ここに来るから船を出す用意ばしといてくれちゅうて。前金で払わしたとです。こっちは商売になればいつでん船は出しますと」 「その女の人は、この人ですか」  平栗はポケットから三枚の写真を出した。見城美樹のスナップ写真である。事務長は写真を手にし、すぐには返事をしなかった。平栗は眉をひそめた。 「違う人のごたるです。あんときの女の人は黒ぶちの眼鏡ばかけとらしたし、髪型も違うごたるですね」 「それは変装ですよ」  顔がアップになった写真を一枚とると、平栗はボールペンで眼鏡を描いた。 「これでどうです」 「似とるごたるですな」  それだけで充分だった。二十七、八、背の高い美人、それで美樹の特徴は捉えている。 「八日と同じ時刻に、ここに来ますので、空港まで行ってくれますか」 「はい、船ば待機させておきます」 「前金で払っておきます、いくらです」 「刑事さんのお役に立つとなら、一万円でよかです」 「二人で?」 「はい」 「だったら、往復二万円ということでどうです」 「けっこうです」  平栗は、亨に二万円出しておいてくれ、と言った。  待合室を出ると、ちょうどそこへ来たタクシーに乗り込み、佐世保中央署、と言った。 「これで、見城美樹を参考人として呼べる」 「だが、何も喋らんだろうな」 「事実否認のまま起訴ということもある」  佐世保中央署から警察電話で丸の内署に繋いてもらう。電話はこれが一番簡単だ。電話料金もかからない。 「田沢主任、見城美樹のアリバイは崩れました」  平栗は、高速船チャーターの一件を話す。制服の木塚次長がそばで聞いていた。 「それはないですよ、主任」  と平栗は怨ずるような声をあげた。 「わかりました、そうします」  と言って電話を切った。 「空港まで行く必要はない、今日の『さくら』で帰れと言われた。宮仕えはつらいね」 「高速船にはおれだけ乗ろう。おまえを見送ってからな」  平栗は舌打ちした。 「よかったじゃなかですか、高速船ばチャーターできるとは、おいも知らんやったもんね」 「いろいろご迷惑かけました」 「いやいや、礼なんかよかですよ。また佐世保に来たときには顔ば見せてくれんですか」  木塚に礼を言って署を出ると、平栗と亨は佐世保駅に向かった。  九章 落ちたパスポート     1  桑田、寺迫《てらさこ》両刑事が、『メゾン吉祥寺』の三一七号室のドアをノックした。部屋の中には人の気配があった。見城美樹《けんじようみき》が部屋にいることは確認されていた。他の刑事たちがマークしていたのだ。 「どなたでしょうか」 「丸の内署の者ですが」  桑田が答えると、鎖を外す音が聞こえ、ドアが内側から開いた。そこにジーパン姿の美樹が立っていた。足の長さが目についた。 「丸の内署の桑田です。こちらは寺迫刑事です。あなたのアリバイは崩れました」 「そうですか。それで、逮捕状が出たのですか」 「いいえ、任意出頭です。拒否されますか」 「拒否しても、一度はうかがわなければなりませんわね。どうぞ、お入りになって下さい。着換える時間くらいはいただけるんでしょう」 「どうぞ」  二人の刑事は玄関に入った。 「電話も一本したいんですけど、よろしいかしら」 「けっこうですよ」  美樹は奥へ消えた。桑田と寺迫は顔を見合わせた。 「顔色も変えませんでしたね」 「覚悟はしていたのだろう」  十数分して美樹は外出の仕度をして出て来た。エンジ色のスーツを着て悠然としていた。捜査本部に参考人として呼ばれる顔色ではない。容疑者として呼ばれる者はたいてい顔を強張らせ青ざめるものだが。  部屋のドアをロックし、エレベーターに乗る。マンションの表には覆面パトカーが待っていた。運転席には私服の警官が乗っている。美樹を後シートに乗せ、そのあとから桑田が乗った。寺迫は助手席である。ベルトを締めた。  丸の内署に着くまで、美樹も桑田も口をきかなかった。彼女はジーッと窓外に顔を向けていた。丸の内署に入り、美樹は二階にある取調室に入れられた。  狭い部屋である。中央に木製の机が一つ。向い合うように椅子が二つ置いてある。美樹は窓に向うように坐らせた。窓には黒々と鉄格子がはめられている。ドアに近い隅にもう一つの机があり、その前の椅子に記録係の刑事が美樹に背中を向けるように坐っていた。もう一方の壁には鏡がはめ込まれていて、その下に小さな手洗いがついていた。この鏡がマジックミラーであることは、たいていの人が知っている。  もしかしたら、『さくら』の松本車掌を連れて来て、面通しさせるのか、と思ったりする。もっとも、松本車掌が東城大学まで刑事に連れられて、会いに来たのは知っていた。  いかにも殺風景で警察の取調室らしい。もう少し、この部屋どうにかならないのかしら、と思う。もっとも容疑者を萎縮させ、白状させるにはいい部屋かもしれない。 「煙草、吸ってもよろしいかしら」 「どうぞ」  刑事はアルマイトの灰皿を持って来て机の上に置いた。美樹は、バッグからモアを出すと一本を咥《くわ》え、ライターで火をつけた。ゆっくりと煙りを吐く。一本を吸い終り、灰皿に吸殻を潰《つぶ》したところで、二人の男が入って来た。美樹はもっと待たされるものだ、と思っていたので意外だった。  一人が美樹に向い合い、窓を背にして坐った。逆光なので表情までは見えない。後ろに一人が立った。これは秋庭《あきば》刑事である。 「捜査主任の田沢です」  田沢は軽く頭を下げた。その田沢主任に美樹は微笑を返した。 「あなたの、佐世保でのアリバイはなくなりました」 「はじめから、あたしにはアリバイなんてありません」 「見城さんは、小銭徳次、赤座加津子、百木英太郎の三人を殺害したことをお認めになりますね」 「いいえ、認めません」 「いくつかの証拠があります」 「殺していないのに証拠などあるわけないでしょう」 「あなたは長野県松本の生まれで、蛇に馴れている。蝮毒を採取できる」 「もしかしたらできるかもしれません。でもそんなことしたことはありません」 「神崎雅比古《こうざきまさひこ》さんが、車で秋坂うめさんを死に至らしめた。それを目撃した小銭徳次に恐喝されたことで、小銭徳次を蝮毒で殺害した」 「…………」 「次に、小銭殺しに利用した赤座加津子がまた恐喝して来たことでこれを殺害した。更には、神崎さんが秋坂うめの件で百木英太郎に相談したことから、おそらくこれも恐喝と思われるのだが、百木が生きていては神崎さんのためにならないと考えて、これを殺害した」  田沢はじっと美樹の顔をみつめながら喋る。美樹の脳の襞《ひだ》まで覗くような目つきだ。  それに対して美樹は黙した。口を開けば言質をとられる。  だが、田沢の言葉にはいま一つ迫力が欠けていた。美樹を犯人とするには、いま一つ証拠がないし、田沢自身、美樹を犯人と思えないところがあった。  小銭、赤座、百木の殺害現場からは、百個近い指紋がとれたが、美樹のものと思える指紋は検出されなかったのである。計画的な犯行ならば指紋は残さないだろう。  手袋をしなくても指紋を残さない方法はある。両手十指にビニールテープを巻く。あるいは指の腹に工作用の糊をつけて乾かす。はじめから指紋を磨滅させておく。方法はいくらもある。職業によっては指紋のない人もいるのだ。  もちろん、美樹の指紋はあった。あらかじめ照合するための美樹の指紋は採取されていたのである。  秋庭刑事が、色だけついた出がらしのお茶を淹《い》れ、机の上に置いた。 「答えていただけないのですかね」 「弁護士に相談してからお答えいたします」  美樹は、マンションを出る前に津知田涼子《つちだりようこ》弁護士に電話を入れていた。すでにこの丸の内署に着いているはずである。 「事実否認のまま送検することもできるんですがね」 「どうぞ」 「美人を相手というのは弱いですな」  田沢は、笑い、頭髪を掻いて笑った。彼に確信があれば、鋭く追及しただろうが、第一に確信がなかった。参考人として呼べば何か喋ってくれるだろう、という期待があった。その期待も薄くなってくる。  美樹が弁護士まで用意しているとは思っていなかった。美樹という砦は落ちないだろうという気がしてくる。落とす材料も武器もない。  警察に呼ばれれば、たいていの人は怯《おび》える。それで自白する者も少くない。だが、美樹は顔色一つ変えない。こういう女は始末に悪いことを田沢自身知っていた。激しく机を叩くわけにはいかない。相手は知性もあり、品もある美女なのだ。  おれの負けなのか、と内心呟いてみる。田沢は、話題を変えた。 「百木英太郎には、泰美《やすみ》という妹がいました。その泰美は十一年前に、同じ『さくら』で自殺しています」  わずかに、美樹の顔色が動いたと思った。 「これは、自殺ではなく他殺ではなかったのかと思って、いま捜査をはじめています。見城さん、何かご存知だったら教えてくれませんか」  田沢は下手に出た。もちろん、十一年前の百木泰美の自殺と今回の殺人事件との関連はまだない。  だが、美樹は口を閉ざしたままである。  ドアがノックされ、刑事が顔を出した。田沢が立ってドアの外に出る。刑事が名刺をさし出した。弁護士、津知田涼子とあった。頷いて取調室にもどる。弁護士のことは伝えなかったが、美樹には気配でわかったらしい。  田沢は椅子に坐り、煙草を咥《くわ》えた。 「三つの殺人事件は、あなたを指しています。アリバイがないのですからね、それに、小銭、赤座、百木の三人に関りがある」 「…………」 「あなた以外には容疑者が出て来ない。ご協力願えませんか。ぼくはあなたを犯人とは思っていないんです。だけど何かを知っているはずです。犯人を知ってお隠しになると共犯になりかねませんよ」  田沢は更に下手に出た。犯人だという確信があればとことん追及できる。確信がないと逆におたおたしてしまう。警察官として減点になるからだ。  このときすでに田沢は、美樹を参考人として呼んだことは失敗だと思った。  たいていの容疑者は、アリバイを主張する。そこで刑事たちはその裏をとるために走りまわる。だが、美樹は逆だった。アリバイを口にしない。だから三件の殺人事件で、美樹のアリバイの裏がとれない。もし起訴してからアリバイが確認されたら、捜査本部の面子《メンツ》が立たないことになる。おそらく美樹は確かなアリバイを持っているはずである。だが、はじめっから、それを口にしない。 「誰かをかばっているのですか、でしたらそれを言ってもらったほうが、あなたのためでもあるのですよ」  三つの殺人事件には女の影がちらちらしている。彼女には姉妹はなかった。すると友だちなのか、もちろん、その辺も捜査している。大学の仲間、高校・大学の友だち、幼なじみ、だがその中からもいまのところ容疑者は出ていない。  三件は、連続殺人事件である。三人の背後には共通の動機がなければならない。それが皆目見当がつかないのだ。動機らしいといえば小銭徳次の件だけである。小銭を殺したために雪崩れ的に赤座と百木を殺した、とするには、どこか納得できない。  もちろん、捜査本部では、百木泰美の自殺を捜査しているが、みごとに何も出て来ない。長崎にも刑事を出張させ、泰美の身辺を洗わせているが、いまだ何もないのだ。ただわかったことは、兄の英太郎が泰美の痕跡をていねいに消していっている、ということだけだった。  泰美の友人知人のところへ来た手紙、はがきなど、また泰美自身の日記など、すべて回収しているらしい。だが、何のためにそんなことをしたのかも理解に苦しむ。だから、泰美の筆跡すら残っていない。おかしなことだった。自殺と断定されたとき、泰美の遺品と一緒に遺書も家族に返され、コピーが一枚残っているだけだった。もっとも友人知人のところに英太郎が回収しきれなかった手紙やはがきが残っていたとしても、十一年の歳月が経っている。たいていは棄てられたか焼かれたかしたのに違いない。  田沢は、そのことをゆっくりていねいに喋った。美樹は黙ってそれを聞いていた。 「つまり、泰美の遺書が本ものかどうかも確認されていないのです」 「…………」 「もう一つ、連続殺人事件でありながら、小銭、赤座、百木とは全く繋《つな》がらないし、また泰美とも繋がらない。どこかで繋がっているはずなんですが。見城さん、教えていただけませんか」 「…………」 「見城さんは、大学の講師でいらっしゃる。良識のある方だと思いますけど」 「津知田先生におまかせしてあります」 「でも、いまのところ、あなたには三件ともアリバイがないんですよ」 「…………」 「そうですか」  と田沢は椅子を立った。そして秋庭刑事をうながすと取調室を出た。そして捜査本部の部屋にもどった。 「主任、お宮入りですか」 「そんなことはない。発想の転換だな、はじめから考え直してみなければならないな」 「百木泰美の自殺は、今度の事件には関係ないのですかね」 「泰美が他殺だとすれば、英太郎までなぜ殺されなければならないのだ。逆なら可能性はあるんだろうけどな。英太郎は、なぜ、泰美の周辺から証拠を消していったのだ」 「もしかしたら近親相姦!」 「それで泰美が殺されたのなら、今度、英太郎が殺されるわけはないだろうし、今度の事件とも繋《つな》がらない」  不可解な事件だった。  たしかに小銭徳次の初動捜査にはミスがあった。だが平栗刑事たちが、事故死と他殺の両面で動いていた。何か見逃したものがあるのだろうか。  容疑者として浮かび上った見城美樹に、あまりにこだわりすぎたのか。小銭と百木は蝮毒を注入された。すると注射器のようなものが出て来なければならない。犯人はすでにそれを消却しているだろう。赤座殺しの兇器M61エスコートは出て来た。だがこの拳銃も何一つ語ってはくれないのだ。  目撃者は一人だけいる。佐世保駅の『さくら』の車内で百木と一緒にいた女を見た松本車掌であるが、その証言も曖昧《あいまい》だった。 「見城美樹は、どうしますか」 「留めておいても仕方ないだろう。帰してくれ」  はい、と秋庭刑事が出ていった。  犯人と共犯と思われていた赤座加津子の夫|誠史《たかふみ》は、結局容疑が晴れた。翌日の朝、誠史は会社を休んで映画を見ていた。彼には六千五百万の金が転り込んで来たことになる。  捜査に行き詰ったら現場にもどれ、という。その現場が三件とも消失している。常に移動している寝台列車は、常に掃除され、常に乗客が乗り降りしている。もちろん、三つの現場からは微物採取も行われている。毛髪とか細菌のたぐいである。それらからも何も出て来なかった。  なぜ、殺害現場に『さくら』の車内が選ばれたか、も考えていた。現場が保存できないというのもその理由の一つなのか。  寝台列車というのはいくらもある。なぜ『さくら』なのか。最も長い距離を走る寝台列車は『さくら』である。『さくら』は寝台列車の代表、それだけ世間に知られている。  むかしの『さくら』の寝台は三段だった。そのころは途中駅で作業員が乗り込んで来て、座席を寝台に直し、また朝には、寝台を座席に直す。  二段寝台になって、作業員は乗り込まなくなった。座席がそのまま寝台になるからだ。乗客が自分で座席にシーツを掛け毛布をかければすむ。夏休み、暮れ、正月など乗客の多いときを除けば、たいていは下座席だけが使われる。すると、始発から終点まで、カーテンを引き、寝たままで行ける。つまり、座席で人が死んでいたとしても、乗客も車掌も気付かないケースが多い。小銭と百木のケースがそうだった。 「やはり『さくら』が一番、殺人には使いやすい、といったらJRに叱られるかもしれんけどな」  田沢は煙草に火をつけ、煙りを勢いよく吐いた。     2  長崎県平戸は、九州を縦に細長くしたような長い島で、全長四十数キロ、九州本土とは平戸大橋一本で繋がっている。もっとも船による便はいくつかある。  道路は整備されていて走りやすいが、北に位置する平戸大橋を渡って南端までは百キロ以上になるようだ。  小銭|亨《きよう》は、この平戸の南端、宮ノ浦というところにいた。  ここには、沖釣り、瀬釣りの客たちのために舟宿が四、五軒あって、釣り好きの人たちが佐世保、佐賀、福岡からまでも車でやってくるという。それだけに、海のきれいな魚の豊富なところでもある。  亨は、佐世保のシティホテルで、津知田涼子の電話を受けて、この宮ノ浦にやって来たのだ。 「見城美樹は、九月六日に全日空で長崎空港に行き六日と七日の夜は平戸の宮ノ浦にある舟宿『菊田』に泊ったと言っているの。そして八日の午後五時に長崎空港に着いているわ。五時半ころ空港ビルのレストランで、彼女は人のカレーライスをひっくり返して、女のひとのスーツを汚して騒ぎになっているの。その二つを確認してちょうだい」  と言った。  美樹のアリバイは崩れた、と平栗刑事がよろこんで帰っていったのは、一昨日だった。ところが、美樹には別のアリバイがあったようだ。そのアリバイは、捜査本部には告げずに、涼子に喋っている。  父徳次殺しの容疑者のアリバイを亨が確認するというのも、考えてみればおかしなことだった。だが、これは亨の調査員としての仕事である。私情は入れないでね、と涼子は念を押した。  どうも美樹という女のやり方がわからない。はじめにアリバイを主張していれば、その時点で容疑は晴れていたはずである。アリバイをはっきりさせないことで、捜査の方向を自分に引きつけていたとしか思えない。もちろんそこには美樹の意図があるのだろうが。  亨は、佐世保でレンタカーを借りて、宮ノ浦まで来た。佐世保から三時間以上かかる。宮ノ浦で確認がとれれば長崎空港に向かうことになる。おそらく二つのアリバイは証明されるだろう。  六日と七日に宮ノ浦に泊っていれば、赤座加津子は殺せない。また、五時半に空港のレストランにいたことになれば、当然、百木英太郎は殺せないことになる。この二つとも、美樹が故意に作ったアリバイだろう。  もちろん、亨が確めたアリバイは、捜査本部によって再確認されることになる。  車を降りて、亨は『菊田』を探した。人に聞くまでもなく、舟宿『菊田』はすぐにわかった。小さな看板を掲げていた。民宿だった。  美樹がどうしてこんなところへ来たのか。アリバイ作りなら、なにもこんな西の果てまで来ることはない。東京で足りるはずだ。 『菊田』の玄関に入って声をかけた。人の気配はないし、返事もない。家の者は外出しているのだろう。外へ出て首を回した。  海への道を降りていく。港には漁舟がもやっていた。堤防を歩く。すでに夏の海ではないが、海の水は青くよく澄んでいた。透明度はかなりのものだろう。堤防の端まで行き海を覗く。小さな魚が泳いでいるのが見えた。  亨は、人の気配に振りむいた。そこに意外な男が立っていた。新宿歌舞伎町で亨をナイフで襲った原田恒夫だった。思わず手を見る。ナイフはなかった。 「小銭さん、このまま帰ってもらうわけにはいきませんか」 「どうして、こんなところまで」 「ぼくは、ある女を愛していましてね」 「ある女というのは、見城美樹ではないな」 「そういうことですね」 「美樹のアリバイが証明されると困るのか」 「あなたが、佐世保シティホテルに泊っているのを知っていました。そして今日、ここに来るのも」 「きみが愛している女というのは誰なんだ」 「その女は、ぼくではない男を愛しています。おそらく、その女は、愛する男のためなら、人も殺しますよ。報われない愛です」 「きみも報われない愛か」 「そういうことになりますね」 「だけど、いまさらおれを止めても無駄だろう」 「彼女は、三日後にヨーロッパに発ちます。おそらく何年かは帰って来ないでしょう」 「彼と一緒だな」 「そうですね」 「原田くん、今度の事件で、どういう役目を果したんだ」 「新宿であなたに挑んだだけです。もう一つは、今日、平戸までやって来たこと」 「三日後か、三日間では捜査本部はその女まで届かないだろう。おれがここに来ることはその女に聞いたんだな」 「そうです」 「報われない愛なんてむなしいだけだろう」 「愛とはそんなものでしょう」 「独占欲ではないというんだな」  原田は目を伏せて笑った。原田が言う女とは、美樹と同じほどの年齢だろう。すると女よりも原田のほうが若い。 「その女と、女が惚れている男のことを喋らないか、そうすれば美樹のアリバイを捜査本部に報告するのを三日だけ待ってやる。その女におれのオヤジが殺されているんだぞ」  原田は黙った。 「ぼくは乗っていたタクシーを帰しました。佐世保まで、小銭さんの車に乗せてもらえますか」 「いいだろう」  亨は原田を押しのけて歩き出した。もちろん油断はなかった。ポケットにナイフを持っていないとは言えない。  舟宿『菊田』に入って声をかけた。すると今度は四十年配の俗におばさんといえる女が姿を見せた。 「九月六日と七日のことですが、この女性がここに泊ったはずですが」  亨は写真を出した。 「ああ、見城さんですたいね」 「たしかに九月六日と七日でしたか」 「待っといて下さい」  と女は奥から帳面を持って来てめくる。 「はい、九月六日、七日やったとです」  舟宿として客を泊めるのが商売だ。宿帳はちゃんと付けてあった。見城美樹とあり、東京の住所が書き込んであった。  六日には泊り客が美樹の外に三人、七日には五人あった。三人組と五人組はもちろん釣り客で、二組とも福岡から来ていた。それらを手帳にメモした。 「他のお客さんとも知り合いになったんですね」 「ええ、仲よう酒ばのんどらしたですよ」 「見城さんは、はじめてこちらに見えたんですか」 「いいえ、はじめは八年前でしたか、女子大生のころやったです。三人でみえられて、その中の一人が、海にはまって亡くなられたとです」 「死んだ?」 「ええ、平戸署からパトカーの来て、なんでも失恋自殺ということだったとです」 「失恋自殺?」 「三年前にも見城さんは、二人で見えなさったとです」 「亡くなった女性と、もう一人の名前はわかりますか」 「はい、よう憶えとります。亡くなったのは石野知子さん、三人組のもう一人は西郡亮子《にしごりりようこ》さんです」  おばさんは、宿帳の裏に二人の名前を書いてみせた。 「今年も、見城さんは亡くなった石野さんば供養しにみえたとです」 「亡くなったのは、八年前のいつですか」 「八月の二十二日でした」  亨は礼を言って舟宿を出た。美樹は偶然に平戸の隅まで来たわけではなかった。仲よし三人組で大学生のころ、平戸に旅行に来て、『菊田』に泊ったものらしい。  車にもどった。助手席に原田を乗せる。そして煙草を咥《くわ》えた。 「原田くん、きみが惚れている女というのは西郡亮子だね」  原田は、ぎくりとしたように、亨を見た。 「八年前と三年前に、見城美樹と西郡亮子はこの宮ノ浦に来ている」 「そうだったんですか、知らなかった。だったら隠してもしょうがないですね」 「西郡亮子、何者なんだ」  原田は黙った。亨は車を出した。車は志々伎《しじき》湾を半周するような道を走る。津吉、紐差《ひもさし》、そして山中と山中の道を走る。 「喋ってしまえよ、彼女がヨーロッパに発つまでは待ってやる」 「五日、待ってくれますか」 「いいだろう」  津知田涼子がどう言うかはわからないが、美樹の弁護を引き受けているのなら、警察には言わないだろう。 「もし、ぼくを裏切ったら、殺しますよ」  亨は、彼の強い視線を左頬に覚えた。この男は本気で西郡亮子に惚れているんだな、と思った。もしヨーロッパに発つ前に、西郡亮子が逮捕されたら、原田はほんとに亨を刺しに来るだろう。 「亮子さんは、見城さんの友だちです」 「それはわかった」 「いま、武蔵野にある新見《にいみ》学園の図書館で司書をしています。ぼくも新見学園の大学を卒業しました」 「惚れたのは、そのころからか」 「そうです」 「西郡亮子が惚れている男というのは」 「学園の学生部長で、新見|晋《すすむ》、三十五歳」 「なぜ、おれのオヤジを殺した?」 「知りません」 「知りませんだと、ふざけるな」 「ぼくはくわしいことは知らないんです。亮子さんが新見晋のために三人の人を殺したらしいことだけです」 「では、きみはなぜ、二人の男とおれを襲ったんだ」 「疑惑を見城さんに向けるためです。まさかぼくが小銭さんに負けるとは思っていなかったんです。小銭さんに一週間くらい病院にでも入ってもらえば、それだけで」 「冗談じゃないよ」 「冗談ではありません、ぼくは真剣です」 「その亮子に頼まれたのか」 「ええ、それとなく。今度の平戸は、はっきりとです。あと三日待ってもらってと」 「きみは、その亮子に利用されているだけだ」 「それでいいんです」  車は平戸大橋を渡った。佐世保まで一時間半、空港まで一時間二十分、まだまだ時間はあった。車は空港に置いて東京にもどることにしていた。涼子は新宿の事務所で待っていることになっている。涼子はこの事件のことをみんな知っているのか。     3 「知っていること、みんな言っちまえよ。喋らないと、丸の内署の捜査本部に西郡亮子のこと言っちまうぞ」 「小銭さん、それはないですよ」 「ナイフ持っているのか」 「いまは持っていません」 「ほんとだな」  運転しているところをグサッとやられたくない。 「きみは、運転できるんだろう。代ってくれ」 「どうしてですか」 「ただで乗せてもらっているんだろう。運転くらいしていいだろう。おれはあまり運転が好きじゃない、くたびれているんだ」 「いいですよ」  車を止めて席を代った。こういう男は亨だってこわい。 「言ってしまえよ、おれは約束は守る」  原田は一息ついた。 「新見部長は誰かにずっと恫喝《どうかつ》されていたようです」 「誰かって、誰だ」 「殺された百木英太郎だと思います」 「どうして、ゆすられていたんだ」 「くわしくは知りません。この十年くらいの間に、二億くらい」 「二億だって」 「二年に一度か三年に一度、三千万とか四千万とか」 「二億を払うだけの資力があったわけだ。新見には」 「学園理事長の新見|喬三郎《きようざぶろう》が父親ですから。亮子さんがこぼしていました」 「つまり新見は、二億円をゆすられるだけのことをしたわけだ」 「このまま放っておくと、あと何億ゆすられるかわからない」 「新見学園が潰《つぶ》れてしまうくらいの何かだな」  亨は原田の話を聞きながら、煙りをくゆらせる。車窓は半分ほど開いていた。 「小銭さん、大丈夫でしょうね」 「何がだ」 「あと五日、待ってくれること」 「約束するよ」 「でも、小銭さんのお父さんが殺されている」 「仕方ないだろう、そこまで喋ったのなら。おれだって、きみに刺されるのはいやだからね」 「百木英太郎には、妹がいたようです。新見学園の生徒でした。十二、三年前でしょう」 「百木の妹に新見晋が手をつけた」 「そのようです」 「よくあるパターンだ。新見がいま三十五なら、二十二、三のころだな」 「百木の妹は自殺したようです。長崎から夏休みが終って上京する『さくら』の中で」 「さくら?」 「自殺したのが十一年前」 「それをネタに、百木は新見を脅しつづけた。だが、自殺ならば金を出すことはない」 「新見学園に傷がつきます。そのことが新聞ダネにでもなれば」 「違うな、新見は百木の妹を殺したんだ」 「そう思いますか」 「百木は、その殺しのネタを握っていた。そうでなければ、十年間も脅し続けられない。百木は一生、新見から金を絞りつづけるつもりだった」 「ぼくもそう思いました」 「十一年前だとすると、時効まであと四年あることになる」 「そうです。新見部長もこらえきれなくなったのでしょう」 「だったら、新見が自分で百木を殺せばいい」 「亮子さんは、部長を愛しています」 「男のために人を殺せる。そんな愛なんて信じられないな、おれには。それも新見は人殺しだ」 「愛していれば、それくらいできます」 「捕ったらその男とは一緒になれない」 「だから、二人はヨーロッパに行くんです」 「永久に帰って来ないのならそれもいい。だが、いまは国際警察機構というのがある。ヨーロッパにいても逮捕されるかもしれん」 「日本の警察権の及ばない国があるんじゃないですか。そういう国で二、三年過す。それで亮子さんは報われるんです」 「それはいい、それはいいとしよう。おれには愛なんてわからん」 「小銭さんにはわかりませんか」 「おれは女を愛したことなんかない。好きになるのはあるけどな」  ちらりと、沢田佳子の顔を思い出した。 「それはいい、だけど、オヤジと赤座加津子はなぜ殺されたんだ」 「それはわかりません、ほんとです。ぼくは知らないんです」 「どういうことだ」 「前の二つの事件は別ではないですか」 「そんなことはない。オヤジは、見城美樹とつながっている。赤座は、オヤジを殺したときに利用されている。それを知って、おそらく西郡亮子を恫喝した。それで殺された」 「前の二つと、後の百木殺しとは別にできないんですか」 「できないね、ブルトレ『さくら』、それに蝮毒がある」 「亮子さんが、小銭さんのお父さんが殺されたのを真似た」 「違うな」 「だけど、亮子さんには、前の二人を殺す動機がありません。彼女は百木だけいなくなってもらえばよかったんですから」 「カムフラージュ」 「えっ、何ですか」 「西郡亮子は、カムフラージュを二つ作った。一つは見城美樹を容疑者にすること、二つ目は、連続殺人事件に見せながら、百木に関係のないオヤジと赤座を殺した」 「そんなバカな」  亨はハンドルを押えた。 「おい、しっかり運転しろ、おれはおまえと心中なんかしたくない」 「そんなはずはありませんよ」 「あるな、三人殺されれば、捜査本部は三人共通の殺される動機があると考える。百木だけ殺せば、捜査はそこに集中し、百木の妹が殺されたこともわかる。すると、新見晋のこともそのうちに浮かび上ってくる。亮子は関係のないオヤジと赤座を殺したんだ」 「考えられませんね」 「そこでだ、亮子と美樹はなぜ組んだかだ。ただの大学時代からの友情というだけではないな、女の親友というのは、おれは信じない。そこには何かあるな」 「何があるんですか」 「わからんよ。その西郡亮子に会わせてくれ」 「それは無理ですよ」 「会わせないと、丸の内署に駈け込む」 「小銭さん!」  原田はブレーキを踏んだ。亨はフロントガラスに頭をぶっつけた。 「わかったよ、車を出せよ。急に止ると追突されるぞ」  幸い後の車は車間距離を開けていた。トラックにでも追突されたらただではすまない。 「原田、話合おう。新見と亮子はヨーロッパに発たせる。それは約束する」 「駄目ですね」  亨は、ふむ、と唸って腕を組んだ。亮子に会わなくても美樹が喋ってくれるかもしれない。美樹は亮子に、この事件に曳《ひ》きずり込まれたのだ。  そう考えてみれば、これまでの美樹の態度もわかってくるような気がする。 「小銭さん、ぼくはほんとに殺しますよ」 「そう脅すな」  原田と対峙《たいじ》してなら、ナイフにも対応できるだろう。だが、いきなり刺されたら、亨だって防ぎきれない。それは新宿で体験している。すれ違いざまに、いきなり殴られ、亨はまともに拳を喰ってひっくり返った。あれがナイフだったら腹を抉《えぐ》られていただろう。そしてこの原田は、それをやりそうな男だ。 「原田、おまえは、そんなに亮子を愛しているのか」 「はい」 「おまえも妙だけど、その亮子という女も妙だな、惚れた男のために、三人もの人を殺せるとはな」 「何も報われなくていいんです」 「西郡亮子は新見晋にぽいと捨てられるかもしれんじゃないか」 「捨てられないでしょうね」 「どうしてだ」 「外国にいる間は、四年経っても、十年経っても時効は成立しないんでしたね」 「そうだったな。すると亮子は、それを計算しているってことか」 「そうでしょうね」 「まいったな、ただの愛情という情だけではなかったわけだ。女の計算もちゃんとあった」  車は、長崎空港に着いた。レンタカー会社に電話を入れ、空港ビルのレストランに入り遅い昼食をすました。店長を呼び、九月八日のことを聞き、美樹の写真を見せた。店長とウエイトレス二人がそれを認めた。五時半に二分ほど前だったという。  美樹はアリバイを作るために、わざと客のカレーライスをひっくり返したようだ。客はブラウスからスカートに、カレー汁をベットリ浴びた。思いきったことをやるものだ。  この時刻が、『さくら』が佐世保を発車する五時半では、アリバイは完全に成立する。  亨は、店長、ウエイトレス、そしてカレーを掛けられた客の氏名、住所を手帳にメモした。  亨は、原田と共に、長崎空港一七時三五分発東京行、東亜国内航空364便に乗った。機内で、津知田涼子に渡す報告書をまとめた。     4 『畔倉《あぜくら》弁護士事務所』に、津知田涼子と見城美樹の二人が、亨の帰りを待っていた。原田とは、途中、品川駅で別れた。 「亨、早かったのね、どうだった」  涼子が言う。 「まあ、完璧だろうね、この報告書を出せば捜査本部は裏をとるだろうが、その時点で、見城さんのことは諦めるだろうな」 「ありがとう。このことは、まだ捜査本部にも、平栗くんにも内緒よ。弁護士は依頼者の利益を守らなければならないんですからね」 「あと三日か」 「何のこと?」 「西郡亮子と新見晋が、ヨーロッパに発つ」  涼子と美樹は顔を見合わせた。美樹はすべてを涼子に話したようだ。 「亨、どうして知っているの」 「見城さん、あなたの話を聞きたいですね、捜査本部も、あなたに翻弄された」 「亨、あなたは、あたしの調査員なのよ。秘密を守る義務があるのよ」 「わかっているよ、三日間は秘密を守る」  原田にも約束をした。何も原田のナイフが恐しかったわけではない。五日でも十日でも秘密は守る。 「いいわ、話します」  と美樹が言った。  話の内容は、原田が語ったことと大差なかった。原田が語らなかった部分から要点だけを説明しておくと。  見城美樹、西郡亮子、石野知子の三人組は八年前の夏休みに、長崎旅行を思い立った。平戸から佐世保、長崎である。三人とも二十歳、大学三年生だった。  そのころ、石野知子は失恋していた。彼女の好きだった男は美樹に興味を持ち、近づこうとしていた。もっとも美樹は相手にしなかったが。  寝台特急『さくら』で佐世保に着き、佐世保から松浦線列車に乗って平戸口に着く。平戸大橋が出来るまでは平戸口から平戸までは船渡しでカーフェリーがあった。平戸大橋は昭和五十二年完成だから、彼女たちが行ったときには橋はできていた。  ホテルに泊るのはつまらない、ということで、タクシーの運転手に聞き、平戸を縦断し宮ノ浦まで行き、舟宿『菊田』に泊った。  そのころから、石野知子はぐずぐず言う。知子は自分の恋人を美樹が奪ったのだと責め出した。  翌日の朝、『菊田』の舟に釣人たちと一緒に乗る。釣人たちは、自分が釣りたい場所に二、三人ずつ降りる。残ったのは女子学生三人と『菊田』の主人だけ。  そこでまた石野知子が愚痴を言う。美樹と言い争いになる。美樹は知子の肩を押した。すると知子は舟から海へ転げ落ちた。美樹と亮子は叫び、船頭の『菊田』の主人に舟を止めさせた。泳げなかった知子は一時間後に舟に上げられたときには死んでいた。  亮子は、知子が自分で飛び込んだのだと証言した。それがそのまま通って、平戸署では自殺ですました。知子の持ち物の中にノートがあって、恋人に対しての恨みつらみを書いていたからでもある。  この八年前のことが因《もと》で、美樹は百木英太郎殺しに協力させられたのだ。  十一年前の百木|泰美《やすみ》殺し、もちろん証拠は百木が消してしまって何も残っていない。警察の力で捜査すれば何か出て来るのだろうが。  新見晋は、原田が言ったように百木に二億円以上むしり取られていた。今回も五千万円を要求して来たのだ。時効まであと四年、いくら要求されるかわからない。新見が動けばすぐに十一年前のことが発覚してしまう。亮子は新見のために百木を殺す決心をした。  百木が、美樹の婚約者、神崎雅比古の母八重の秘書だったことは偶然である。百木が新見を脅し、金をまき上げたのは、妹の復讐のつもりもあったのだろう。  泰美は、新見とのことをくわしく書いた日記帳を持っていたし、新見からの手紙類も多くあった。それらを小出しにして新見を脅し続けたのだ。  亮子は、百木を殺すについては、いろいろと計画を練った。そして八年前のことを持ち出して美樹を仲間に引きずり込んだ。美樹も八年前のことがあるから亮子には弱い。美樹は、小銭徳次の一件を話した。美樹にもまた神崎雅比古のために小銭徳次がいなくなってくれればという思いもあったのだろう。  警察の捜査方針を外すためには、格好の材料だった。蝮毒を採取したのは亮子である。彼女は新潟の出身、父親が山持ちの素封家であったため、子供のころからよく山に行き、蛇には馴れていた。西郡家の雇い樵《きこり》に蝮を獲《と》ってもらい、自分で毒を採取したようだ。  赤座加津子も新潟の出身で、彼女は亮子の父に三百万円ほど借りていた。それを棒引きにするからと誘って、小銭徳次殺しのときに『さくら』に乗せた。  もちろん、亮子は加津子をはじめから殺すつもりだったようだ。加津子は徳次殺しを知って亮子を脅し、五千万円を要求した。  M61エスコートは、新見晋がアメリカ旅行したときに持ち帰っていたものである。  美樹は九月六日に東京を発ち、平戸に向かった。亮子は七日の『さくら』に加津子を誘い込んだ。その前に彼女は何度も『さくら』に乗り、非常コックのことも確かめていた。  亮子は前々日に、岡山市内で乗用車を盗み岡山駅構内に近いところに車を止めておいた。そして八日朝二時ころ、岡山駅に運転停車する前に、加津子を二号車トイレに呼び出し、トイレの中で射殺、もちろん乗客松田昭子がトイレに来るのは計画外だったが、そういうこともあると予想し、クロロホルムを用意していた。  松田昭子を失神させ、トイレに入れ、トイレのドアをナイロン糸でロックし、加津子の死体を一号車の非常コックを引いてドアを開けて、ホームと反対側に運び出した。コックをもとにもどしたのは車掌の一人だった。  列車はすでに岡山駅を出て走っている。列車は止められない。岡山駅に引き返すことは思いもよらない。車掌は黙していた。  亮子は車で東京に向かった。羽田空港駐車場に車を止め、長崎空港に出て佐世保に向かう。  もちろん、亮子はスーツケースに五千万円を用意していた。この五千万は加津子にも見せたのかもしれない。五千万の札束を見た百木英太郎は安心しきっていた。  その百木の腿に即効性の睡眠薬を注入、百木はびっくりしたに違いないが、亮子に挑みかかる前に眠り込む。  この睡眠薬、チクロパンという商品名で、俗にチクリパタンと言われていた。つまり、チクリと針を刺したあと、一瞬でパタンと眠ってしまう。自分でこの睡眠薬を使うときは刺した針を抜く暇がないほど、早く眠ってしまう。それほど即効性の薬だった。このチクロパンを亮子がどこから手に入れたかは、美樹も知らないと言った。  眠りこけた百木の尻に蝮毒を注入して、亮子は五千万円を持って列車を降り、佐世保桟橋に向かい、あらかじめチャーターしていた高速船に乗り込む。もちろんこの高速船がまっすぐに走れば空港まで三十五分で着くことを確かめておいた。この高速船がなければ、百木は『さくら』では殺せなかったことになる。亮子は事前にあちこちを調べ歩いたらしい。  加津子の死体は、亮子が東京にもどって来てから井の頭公園まで運び、池に沈めたようだ。  当然、赤座|誠史《たかふみ》が妻加津子に六千五百万円の生命保険を掛けていたことは知らなかった。 「それにしても、西郡亮子はよくやったものだ。女は男を愛すると、人殺しまでできるとはね」  捜査本部は、小銭、赤座の関連から、亮子にたどりつくことはできなかった。百木一人を殺すために、小銭と赤座を殺すという発想はおそらく警察にはできないに違いない。 「亨、いいわね、三日間は口を開いては駄目よ、約束して」  涼子の調査員でもアルバイターである。それだけの義務はない。  亨は、涼子と美樹をそこに残して一人で事務所を出た。そして夜の盛り場にさまよい出る。酒をのまないではいられない。コマ劇場に近い居酒屋『薩摩っぽ』に入り、カウンターに坐って焼酎のお湯割りをのむ。 「女ってのは恐ろしい。だからおれは女を愛せないんだ。女は遊ぶだけでいい」  焼酎をお代りする。 「オヤジは何てことをしてくれたんだ。人を恐喝するなんて」  そして、たった五百万のために殺された。健康そのものだったから、あと二十年は生きられたかもしれないのに。亨は徳次が死んでから、まだ一滴の涙も流していなかった。いつかは涙が出るだろう、と思っている。  五百万あれば、いや二百万で立派な墓が出来る。そう思った徳次に魔がさしたのだ。老後のことを考えると手持ちの金は出したくなかった。一生に一度の悪事だった。そしてついでに殺されてしまった。 「司法試験は諦めなければならんな」  亨はまだ若い。生き方は他にもある。司法試験だけが人生ではない。それはとにかく、父徳次を殺した西郡亮子をこのまま逃してしまっていいのか。そう自問する。  原田恒夫にも、津知田涼子にも喋らないと約束した。約束はしたが……。     5  九月二十六日、土曜日——。  西郡亮子と新見晋は、新東京国際空港にいた。あと一時間ほどで日本を離れられる。亮子は見城美樹と並べてみると、それほど似てはいない。身長一六六センチ、ハイヒールをはいているから背は高いし、首も長い。美人タイプであるし、品性もあった。上品な美女のたぐいではある。  彼女は新見晋の腕に自分の腕を絡めた。幸せそうではあるが、顔に疲れが残っていた。空港ロビーを歩く。二人の後ろから背の高い逞しい体つきの男が歩いて来ていた。  亮子は、男に巻きつけた腕を放し、ハンドバッグからパスポートを出した。それを片手に持ち、一方の腕を再び男の腕に絡めようとしたとき、後ろから来た男が、亮子の体にぶち当った。手からパスポートが落ちる。 「申しわけありません」  と落ちたパスポートを拾う。亮子はそれを見ていた。手渡してくれるものと信じていたようだ。男はパスポートを手にすると、立ち上って、亮子を見て、ニヤリと笑いかけた。  男は走り出していた。亮子には何のことかわからない。三秒ほど経ってから、 「ドロボー!」  と叫んだ。     (完)  時刻表は一九八七年八月号を使用しました。 ●本作品は、一九八八年二月、講談社ノベルスとして刊行されました。 ●本電子文庫版は、一九九二年六月刊の講談社文庫版を底本としています。